カテゴリー: 未分類

  • ヴァンラーレ八戸_下平 賢吾

    南郷村のサッカー少年

    青森県八戸市の南部に位置する南郷村。かつては独立した村であり、豊かな自然に囲まれながらも、サッカーとは無縁に思えたこの地から、Jリーグを目指すクラブが誕生した。その名は「ヴァンラーレ八戸」。その立役者が、南郷村のサッカー少年であり、現在代表取締役社長の下平賢吾である。

    幼少期からサッカーに夢中になり、光星学院高校(現・八戸学院光星高校)では全国大会へ出場。東北のマラドーナという異名がつけられるほど目覚ましい活躍を続けていた。しかし、1993年のJリーグ開幕を目の当たりにしながらも、「プロサッカー選手になる」という道は、当時の青森県の環境では遠いものだった。彼が選んだのは、地元でスポーツに関わり続ける道だった。1998年、南郷村公共施設管理公社に入社。施設管理の仕事を通じて地域のスポーツ文化を支えつつ、地元でサッカーの指導を続けた。そして2006年、彼の運命を大きく変える出来事が起こる。南郷村が八戸市に吸収合併されることが決まり、それに伴い、地元のスポーツ施設が再編されることになったのだ。

    地域のサッカー文化を絶やしたくない。その想いが、彼をヴァンラーレ八戸創設へと駆り立てた。ヴァンラーレ八戸。その名前には「ヴァン(起源)」と「アウストラーレ(南の郷)」という意味が込められている。南郷村から始まったクラブが、八戸、さらには青森全体を巻き込む存在になることを示唆するように。

     

    涙を飲んだ日々

    2006年にNPO法人として発足したヴァンラーレ八戸は、当初は社会人サッカーチームの一つに過ぎなかった。しかし、クラブを単なる「大人のためのサッカーの場」ではなく、「子どもたちの夢を支える場」とするために、育成組織にも力を入れた。だが、それだけでは満足しない。2008年、クラブは「Jリーグ昇格」を目標に掲げることを宣言する。

    ヴァンラーレ八戸がJFL(日本フットボールリーグ)に昇格するまでの道のりは、まさに地獄だったと下平は語る。当時、クラブは東北社会人リーグの2部に所属。その先には1部、全国地域リーグ決勝大会、JFLと続く。Jリーグへの道はあまりにも遠かった。社会人リーグ1部の強豪を打ち破り、ようやく地域リーグ決勝大会に進出していくヴァンラーレ八戸。しかし、全国5000以上あるクラブの中で、JFLに昇格できるのはたった2チーム。資金、人材、施設、すべてが不足していた。選手たちは仕事をしながらトレーニングを続け、遠征費すら自費負担をかけてしまうこともあった。

    さらに追い打ちをかけたのはJ3創設のタイミングだった。2014年、J3が新設されることでJFLのチームが大量に抜け、新規参入のチャンスが訪れる。しかし、条件が厳しかった。JFLの成績4位以内、1試合平均観客2000人以上、年間事業収入1.5億円以上、そしてJリーグ基準のスタジアム準備。どれも簡単に満たせるものではなかった。しかも1年間のうちにすべてを満たす必要があり、一つでも欠けてしまうとJリーグの参入は叶わない。

    クラブは必死だった。試合前には地元企業を回り、一軒一軒スポンサーを募った。メディアの力を借り、地元住民を巻き込み、「Jリーグへの挑戦」を訴え続けた。しかし、2016年、JFL2位の成績を収めながらも、スタジアム基準を満たせずJ3昇格を逃した。何度もあと一歩のところで涙を飲んだ。「もう無理なんじゃないかと。選手もスタッフも、心が折れる寸前でした。」だが、下平は諦めなかった。市長をJFL事務局に連れて行き、自治体の支援を直接交渉。当時の八戸市長は「ヴァンラーレ八戸の未来のために」と事務局に嘆願した。そしてついに2018年、J3昇格が決定。涙と歓喜が交錯する、歴史的な瞬間だった。後にJFLは「ここまで自治体が支援するクラブはなかった。八戸しかなかった」と下平の活躍を高く評価していたという。

     

    Jリーグ参入は“試合開始の合図”

    Jリーグ昇格はゴールではなかった。むしろ、戦いはここからだった。経営基盤の安定、観客動員数の増加、強化費の確保。J3クラブとして生き残るために、新たな挑戦が始まった。下平は、クラブを「地域の誇り」として根付かせることを決意した。ホームスタジアムであるプライフーズスタジアムの改修、地元企業とのパートナーシップ強化、地域イベントへの積極的な参加。クラブはサッカーだけでなく、地元経済の活性化にも貢献する存在となった。

    また、ユース世代の育成にも力を入れた。ヴァンラーレ八戸のアカデミーは、青森県全域から選手を集め、次世代のサッカー選手を育成する場となった。「Jリーグで戦うだけでなく、青森の子どもたちが夢を持てる環境を作る」ことこそ、下平の新たな使命だった。

     

    ヴァンラーレの使命

    フランス代表をヨーロッパ王者へと導いたミシェル・イダルゴは、華やかなスター選手を輝かせるために、裏方に徹した名将だった。フランス代表の黄金期を築きながらも、自らは常に影の存在であり続けた。下平賢吾の姿勢もまさにそれだ。なによりも、選手がより良いパフォーマンスを発揮できる環境を整えることを優先する。彼の努力の多くは決して目立つものではないが、その積み重ねがヴァンラーレ八戸の現在をつくり上げた。

    選手が活躍できる環境を整える。その思いがある限り、彼は常にクラブを支え続ける。彼自身が前に出ることはなくとも、ヴァンラーレ八戸が成長し続ける限り、彼の存在感は決して薄れることはない。自己犠牲ではない。これは使命だ。八戸の風の中で、今日も彼は静かにクラブを支え続ける。

  • 株式会社アイアールエフ_長谷川直宏

    積雪で苦しむ人々を救いたくて

    時代が移り変わるとき、人々が見落としがちなものがある。それは土地に根ざした「本当の可能性」だ。

    エネルギー産業の歴史を眺めると、常に巨額の資本と巨大設備が動かす華々しいイメージばかりが取り沙汰されるかもしれない。だが、その裏側には地域の気候・環境、地形、そこに暮らす人々のライフスタイルを巧みに活かし合う“在地型の技術革新”が、確かに存在してきた。現代では、大型化が進む風力発電や太陽光パネルの大規模設置がエネルギー転換の主流として叫ばれている。しかし、“地域の風”や“雪深い土地”ならではの課題に正面から向き合い、「この地で暮らす人を助けたい」という純粋な思いから事業を興す者もいる。株式会社アイアールエフ代表取締役・長谷川直宏は、まさにその一人だ。

    株式会社アイアールエフは2013年12月に設立された。資本金1000万円、正社員3名に加え協力会社5社とタッグを組む。五所川原市を中心に、再生可能エネルギー機器の製造・販売・施工までワンストップで提供し、地域の人たちが無理なく利用できるよう懇切丁寧に解説している。農業・小規模な農地・一般の家庭でも導入できるよう、小型風力の仕組みを一から説明してくれるのだ。売電を通じて副収入が得られるケースだけでなく、近年は「自家発電を行い、地域の雪対策にまわす」アイデアを提示するなど、新しい再エネのカタチを追究している。まるで地元の“かかりつけ医”のように、技術と地元特有の環境をつなぎ、使う人がつまずきそうな問題を先回りして解決する。そんな姿勢こそが、この会社最大の強みだ。

    アイアールエフの拠点は、青森の風と雪が荒々しく肌を刺す津軽地方。この地を拠点に、電気ヒーターの開発・製造、そして施工・メンテナンスまで一貫して行っている。冬になると凍りつく道路や駐車場、積雪による生活への影響に苦しむ人々を、どうにか助けたい…そんなモチベーションが同社の原点だという。しかも長谷川は小型風力発電の普及やメンテナンス事業にも打って出た。かつてヨーロッパのメーカーが提供していた小型風力発電機が次々と撤退・倒産を余儀なくされ、ユーザーが置き去りにされた状況をなんとかしようとフォローに回ったのがきっかけだ。誰かがやらねば人々が困る。ある意味では泥臭く、リスキーで、儲かるか分からない。しかし、その“おせっかい”とも呼べる行動が地元にとって何よりもありがたい。まさに古い価値観と新しい技術が織り交ざる“エネルギー産業の今”を、この青森から独自のアプローチで切り開きつつある。

     

    アイデアはあるが、カネはない

    だが、長谷川がここに至るまでの道のりは決して平坦ではない。そもそも近畿大学工学部(広島キャンパス)に進学し、経営工学を学んだ若き日から彼の人生は軽やかにジグザグを描いてきた。卒業後は青森リコーに就職するが、わずか3年ほどで独立を決意。まだ何者でもなく、資本もなく、技術を確立しているわけでもない。しかし「自分の思い通りの製品を設計・製造したい」という熱だけはあった。加えて青森の雪に悩まされる人々を救う策はないものか…その思いに突き動かされ、個人事業として電気ヒーターの開発・試験施工を始める。

    当時は携帯電話もまだ今ほど普及しておらず、補助金制度なども整備されていない。ヒーター開発に取り組みつつ、生活費を確保するために商工会議所に融資の相談へ足を運ぶ。研究設備どころか家賃の工面すらままならない時期もあった。「アイデアはあるが、カネはない」日々そう痛感させられたと振り返る。

    しかし「困っている人がいるなら駆けつける。電話は24時間応える。」それが長谷川のやり方だった。風呂場だろうがトイレだろうが、いつでも電話を取り、依頼があれば現場に向かい、試験的に製品を設置する。その場で不具合が見つかれば、徹夜で構造を練り直す。スイッチの誤作動はセンサー設定の問題か、雪の性質か、温度差か。ひたすらトライ&エラーを繰り返しながらノウハウを積み上げていった。

    印象深いエピソードを問うと「お金がないまま研究を続けたことが一番きつかった」と苦笑いを浮かべながら口にする。「あの頃は電話代すら惜しくて、でもお客様の電話は絶対に出なきゃいけないし、どうにかしなきゃという思いで毎日生きていましたよね。」という言葉には、どこか懐かしさすら感じてしまう。生活資金のめどが立たないどころか、試作品は失敗だらけ。それでも少しずつコンクリート中にヒーターを通す技術を磨き、ロードヒーティングを現実にしていった。大手ハウスメーカーと提携し、次々と施工依頼が舞い込み始めたのは、こうした地道な努力が実を結んだからこそだろう。

    さらに2010年代に入り、小型風力発電のブームが到来。海外製の風車が魅力的な売電価格とともに市場を席巻した。しかし、思わぬ故障やメンテナンス不足で全国的にトラブルが多発する。製造元が倒産し、アフターサポートが消え去ったケースも頻発した。そんな状況で、長谷川は青森で立ち上がる。使う人が困っているのなら何とかしようとメーカーに直接問い合わせ、部品の調達方法を探り、現場のメンテや改良案を提示し始めた。「自分がやらねば、誰が助けるんだ。」その義侠心めいた姿勢は、結果的に全国各地の小型風力発電ユーザーを救う一手となった。

     

    究極の地産地消を青森から

    歌人・若山牧水のあまりにも有名な短歌が胸をよぎる。
    「幾山河(いくやまかわ)越えさりゆかば さびしさの果てなむ国ぞ 今日も旅ゆく」
    いくつもの山や川を越えていけば、その先には果てしない“さびしさ”が広がっているかもしれない。それでも旅は続く。若山牧水は自然の風景のなかで自らの在り方を見つめ、孤独とロマンを抱きしめるようにして歌を詠んだ。旅はいつだって孤独だ。だが、前に進まなければ見えない景色がある。

    長谷川と若山牧水の共通点は、その“行動する叙情”にあると言えるのではないか、とさえ思う。詩や短歌は一見、静のイメージを伴うが、若山牧水は日本各地を旅しながら感性を研ぎ澄まし、歌を生み続けた“動”の歌人だった。同じように長谷川は現場を飛び回りながら、新しい可能性を探り続ける。“動き”のなかで魂が磨かれ、そこから見えてくる地元・自然・人間のリアルを製品づくりや施工管理に反映していくのだ。そこには計算づくの戦略ではなく、どこまでも現場主義を貫く強い意志がある。

    長谷川の人生にもまた、何度も越えなければならない山河があった。資金難、技術の壁、家族の心配、地域社会からの疑問。それらをひとつずつ踏み越えるたび、青森の風は彼を試すように吹きつける。しかし、挑戦は途絶えない。

    今の彼の焦点は「地産地消エネルギー」の究極形だという。雪深い冬こそ風が吹き荒れる。ならばその風で発電し、自分の家のロードヒーティングに回そう、あるいは蓄電池を併用して災害時に役立てよう…こうした一連の流れをスタイリッシュに、かつ安価に実現するために動いている。五所川原市と連携して工業団地向けの自家発電システムを構想中であり、ペロブスカイト発電シートの研究や蓄電池の最適利用も含めて、青森発の「エネルギー革新」に挑む。かつては無我夢中で電話を取り、雪かきスコップを握りしめた若者が、いまや南極観測隊に風車を届ける技術協力にまで関わる。何やら物語めいたスケールの広がりを感じずにはいられない。

     

    自らの熱で風を起せ

    「地産地消で次の世代にバトンを渡す」。それが長谷川の揺るぎないモットーだ。大きな企業が新技術を押しつけても、地域社会に馴染まなければ意味をなさない。雪と風と共存しながら培ってきた経験と知識を、「次の世代」へ届けたい。誰もが大都市に出ていってしまう流れのなか、青森から“再エネ世界一”を目指す、そんな夢物語を語る彼の言葉にはどこか地面に足のついたリアリティがある。実際、夜中でも電話を取っていた男の言葉なのだから、まったくに荒唐無稽な理想ではない気がするのだ。

    最後に長谷川は若者へメッセージを贈る。「とにかく動いてみること。立派な施設がなくても、研究が紙一枚でも、アイデアがあればやれることはある。失敗なんて当たり前。その先にしか見えない景色があるんです。」ひたすら実践を重ね、地域の課題に自ら突っ込んでいった男だからこそ、この言葉には説得力がある。大きな風車だけが未来を作るのではなく、小さなブレードの回転からでも地域は変わりうる。幾山河を越える勇気さえあれば、きっと遠くの“さびしさ”も、新しい始まりのサインになるだろう。

    大地が陽光を浴びて温められた空気は膨張して上昇し、冷えた空気がその跡を埋めようと流れ込む。この気圧差こそが風の源泉だ。まるで大地が呼吸するように、季節や地形が紡ぎ出す風は地域に多彩な表情を与える。青森の厳しい吹雪や海からの潮風も、すべては地球の鼓動に呼応して生まれるもの。だからこそ、その風を味方につければ、新たな挑戦の扉が開かれるのだ。

    長谷川は、今日も青森の地で旅を続けている。いくつもの風を、味方につけながら。

  • 株式会社テクニカル

    光をあやつる弘前の技術集団

    プリズムは、ただの透明なガラス片ではない。むしろ、それは光が内側で秘密裏に語り合う、小さな宇宙そのものだ。白い光がその角度の狭間に忍び込むと、プリズム内部で幾何学的な光の舞が始まる。

    青森県弘前市。津軽の風は、まるで凍えるほどの冷たさを秘めた刃のように、無情にもリンゴ畑を揺らし、白銀の世界と化した街を包み込む。株式会社テクニカルは、こうした土地に根ざしながら、光学部品製造の最前線でプリズムや光学平面基板の微細な加工を追求している。「測定できるから、加工ができる」という哲学を掲げ、世界中の研究機関や最先端機器に向けて製品を供給。国立研究開発法人新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)の研究開発促進事業への採択や、経済産業省による地域未来牽引企業の選定など、その技術力は国内外で高く評価されている。弘前という静かな土地に根を下ろしながらも、同社の製品は世界各地で正確さと美しさを発揮している。

    細部への妥協を許さない精度へのこだわりが、テクニカルを支えるエンジニアたちの原動力だ。その中心に立つのが、小島保志と三上佳祐。ふたりはテクニカルの技術力を支える根幹であり、同社の精神を体現している存在だ。

     

    設計に目覚めた男

    小島保志の歩みは、かつてCDショップで音楽に身を委ねていたところから一変し、光学の世界に足を踏み入れたことに始まる。最初は全くの異分野で戸惑いもあったが、「音楽で感じる創造の歓び」に通じるものを図面の作成や光の性質を計算するプロセスの中に見出した。駆け出しの頃、初めて自らの手で設計した製品を手にしたときの確かな手応えが、彼の人生を大きく方向づけた。

    いまや小島は、技術営業の要として、設計図と顧客の要望を結びつける役割を担っている。顧客の声に耳を傾け、そこから得たヒントを設計に落とし込み、改良へとつなげる。彼の手から生み出される光学部品は、最先端研究や検査装置に組み込まれ、技術の未来を照らしている。

     

    運命が生み出した生産管理の鬼

    三上佳祐は、高校卒業直前に何気なく目にした「テクニカル」という社名をきっかけに入社を決意した。最初の数年間、数々の失敗と向き合うことになる三上。計算ミスや確認漏れ、手順の見落とし…彼の作業は失敗の連続であったが、そのたびに先輩たちは辛抱強く、そして時には厳しく、彼に「なぜ確認が必要なのか」そして「どこにこだわるべきか」を至極丁寧に教えた。その教えが、彼の中に確かな光を灯し、やがて彼は生産管理部長として、テクニカルの要とも言える製造現場全体を統括するまでに成長する。

    彼は、自らの過去の苦い経験を胸に、新人たちが同じ道を歩まぬよう、細やかに指導し続ける。そして生産工程の一つひとつに魂を込め、精度への妥協を許さず、常に「どうすればより良いものが生まれるか」を問い続ける。研究機関向けの高精度部品を手がけるだけでなく、「テクニカルの技術」が広く人々の暮らしに活かされる未来を目指し、その実現へ向けて日々努力を重ねている。

     

    テクニカルは知の格闘場

    古代ギリシャの哲学者プラトンは、アテナイの片隅に「アカデメイア」と呼ばれる学びの場を築いた。そこは、理性と情熱が交錯し、知識を深めるための自由な議論が絶え間なく行われる場所であった。プラトンのアカデメイアは、単なる知識の蓄積を超え、思考そのものを研ぎ澄ます実践の場であり、後の西洋思想の礎となった。

    テクニカルでも各専門知識が共有され、新たな技術やアイデアを生み出す試行錯誤が日夜続いている。小島保志が図面と向き合いながら未来を描く一方で、三上佳祐は生産ラインを細部まで点検し、品質向上につなげる。彼らは、数字に基づく厳密な計測と、新しい発想を融合させて製品を生み出す誇り高きエンジニアだ。

    小島はこう言う。「最初は何もわからないし、図面を描いたこともなかった。でも少しずつわかってきたのは、わからないことのなかにこそ宝があるってことなんです。」三上はこう続ける。「僕は流れに任せた結果、ここにいる。でもその流れは、自分の手で変えていくこともできる。なぜ確認が必要なのかを自問する、新人に教える、それが次の世代を育てることにつながります。」

    小島と三上が歩んできた道は、偶然と喜びと苦悩、そして絶え間ない挑戦の連続だったかもしれない。転身の勇気、失敗を乗り越える根気、そして何よりも、問い続ける情熱。彼らの姿は、時代を超えて、あらゆる分野のスペシャリストたちに共通する普遍的なテーマを体現している。

    計測と加工、知と技の融合は、単なる仕事の域を超え、ひとつの思想、ひとつの生き方である。小島と三上、そしてテクニカルの社員たちは、これからも弘前で、まばゆい光を放つ製品をつくり続ける。光学の技術を武器に、新しい扉を開けようとしている。そこには、苦境を跳ね返すエネルギーと、未来を創るという確信がある。

  • 株式会社ジェイテック_鈴木 克彦

    エネルギー政策の中核的存在

    青森県上北郡六ヶ所村に本社を構える株式会社ジェイテックは、2003年に設立された原子燃料サイクル施設の運転・保守・管理を担う企業である。その事業が求めるところは同じく六ヶ所村に位置する原子燃料サイクル事業を行う日本原燃株式会社と密接に連携し、六ヶ所村の原子燃料サイクル事業の安全・安定操業を支えることにある。これは単なる企業活動ではない。国家戦略に基づくエネルギー政策の中核を担う存在であり、日本のエネルギー安全保障にとって不可欠な要素である。再処理工場やMOX燃料製造工場、濃縮工場、更には低レベル廃棄物埋設センターの保守・保全業務に加え、プラント運転の受託、放射線管理といった高度な技術力を要する業務を遂行しているのだ。さらに地域社会との共生を重視し、地元企業との連携を通じて地域の経済の発展にも寄与している企業だ。

    かつて小柴昌俊は「見えないものを証明する」科学者として、日本の物理学を新たな次元へと導いた。彼はカミオカンデを用いてニュートリノを観測し、その功績によりノーベル物理学賞を受賞した。そんな彼の研究は理論と実験の融合によって新たな可能性を切り開いた賜物だったが、その精神は現代の技術者たちにも受け継がれている。

    ジェイテックの代表取締役社長・鈴木克彦もまた、技術と経営の両輪を駆使しながら原子力産業の未来を切り開いている存在だ。彼は日本原燃で長年にわたり原子力事業に従事し、その後ジェイテックの舵を取ることとなった。彼の歩みは、単なるキャリアの積み重ねではない。原子燃料サイクル事業の安全・安定操業という国家の根幹を支えるという使命を背負いながら、組織の未来を見据え、新たな道を切り開いてきた男なのである。

     

    仕事は“楽しく”

    鈴木は静岡県浜松市出身。東北大学で原子核工学を専攻し、日本原燃に入社。原子力安全、経営企画、品質保証など多岐にわたる業務を経験し、2024年にジェイテックの代表取締役社長に就任した。

    彼の経歴を見れば、単に技術者としてのキャリアを歩んできたわけではない。経営企画や事業戦略を担い、組織運営の舵取りを経験したことで、国策の根幹を担う洗練された技術者たちを率いる経営者としての視座を確立した。現場育ちではなく、このようなマネジメントの面で知見を深めて来たその経歴は、日本原燃そしてジェイテックのなかでは珍しいと語る。

    新入社員時代に当時の上司から与えられ、モットーとなった「どうせやるなら仕事は楽しく」という彼の姿勢は、単なる指標ではなく、現場の士気を高め、組織の力を最大化するための哲学でもある。

     

    不可欠な「JTボス通信」の存在

    鈴木が特に重視するのは、組織の成長を支える「人育成」の強化だ。ジェイテックは専門技術の習得が不可欠な企業であり、そのための教育・研修制度を拡充している。新入社員だけでなく、中堅・管理職層へのリーダーシップ研修や、最新技術の導入も視野に入れた専門トレーニングを実施し、全社的なスキル向上に取り組んでいる。また、社内の風通しを良くするために、社員間の意見交換の場を積極的に設けるようにし、組織のボトムアップ改革を推進。これにより、現場のアイデアを経営に反映させ、社員一人ひとりが自らの成長を実感できる環境を整えてきている。組織の成長のためには、社員の成長が不可欠。鈴木は社員が成長を実感し、やりがいを持てる組織づくりを推進している。そのために、エンゲージメント調査を定期的に行い、社員の声を経営に反映させる試みも実施しているという。

    そしてもうひとつ重視しているのは、単なる経営者としての役割にとどまらず、企業の価値観や理念を、代表という立場として広く発信することである。その象徴的な取り組みが「JTボス通信」だといえよう。これは鈴木自身が執筆し、社員だけでなく外部にも公開しているブログであり、会社HPから誰でも見ることができる。驚くべきことにその中は単なる情報発信にとどまらず、彼の思考や企業の方向性を共有する場となっている。

    「前任の社長が始めたものであり、私のキャラに合わないなと感じていたということもあって、本当は就任当初に引き継ぐつもりはなかったんです。でも社員の熱い思いに圧倒されてしまって…じゃあやるか、と(笑)。」そう朗らかに語る鈴木からは想像できないほどこのブログは頻繁に更新されており、その一つ一つに経営の哲学、業界の動向、社員へのメッセージなど多岐にわたる内容が展開されている。今では、ネタを思いつけばその場でメモをするクセがつくようになったと語る鈴木。メモの権化とも言える鈴木代表のその熱量は、まさに現場組織を活性化させる原動力となっている。

     

    未来を切り開く唯一の方法

    ジェイテックの未来は、単なる現状維持ではない。六ヶ所村の原子燃料サイクル事業の業務拡大に加え、他の原子力施設や一般産業分野への技術力の展開など、さらなる成長と発展を見据えている。さらにドローン技術を活用した点検業務や、レーザー光を利用した保全、ICT技術の活用といった、従来の枠にとらわれない技術革新を推進するべき存在として日々活躍している。

    そしてジェイテックとして、親会社である日本原燃に対して、受け身ではなく積極的に意見を述べる姿勢を貫くことも忘れてはいけないと鈴木は語る。これは決して闘うということではない。契約関係に縛られがちな関係性の中で、単なる下請けとして待ち構えてしまうとグループ全体の目的を達成することは不可能だ。だから、鈴木率いるジェイテックは「対等なパートナー」としての立場を確立することを目指している。そのために、単なる業務遂行企業ではなく、独自の技術力と視点をもつ組織として成長を続けている。

    小柴昌俊がニュートリノ観測という未知の領域を切り開いたように、ジェイテックは原子力業界という大きなフィールドで、果敢に未来を切り開いていると言っても過言ではないだろう。ジェイテックは単なる企業ではなく、日本のエネルギー政策の中核を担い、地域社会とともに成長する青森に欠かせない存在だ。

    鈴木の視線の先には、原子力の未来、地域社会の発展、そして組織の新たな可能性が広がっている。その航路は未知なる科学の世界へと続いているが、彼は確かな信念と経験を武器に、新たな歴史を刻んでいくに違いない。「技術者であれ経営者であれ、どんな分野に進んでも現状に満足してしまえば成長は止まります。挑戦し続けることが、未来を切り開く唯一の方法です。」そう語る鈴木、そしてジェイテックの挑戦は続く。

     

    公式YouTubeチャンネル:http://www.youtube.com/@j-tech66
    公式X:https://twitter.com/J_tech66

  • 有限会社アクシス十和田_泉章太郎

    社長は業界未経験

    ある男がいた。江戸時代末期の農村に生まれ、貧しさの中で自ら学び、田畑を耕し、財を成した。二宮尊徳…彼の哲学は「積小為大」、小さな努力を積み重ね、大きな成果を生むことにあった。彼はただの農民ではなく、改革者だった。荒れ果てた土地を耕し、村を豊かにし、未来を切り拓いた。その姿勢は、現代にも通じる。地道な労働と信念があれば、不可能を可能にできる。

    そして、今。青森県十和田市の縫製工場である有限会社アクシス十和田にも、泉章太郎という人間がいる。ファッション業界のキャリアを経て、まったくの未経験でこの工場の代表に就任した泉。M&Aによる事業承継、つまり「縫製業のプロ」ではなく、「経営の視点を持つ者」として、この世界に飛び込んだのだ。どのようにしてこの挑戦へと踏み出したのか…その背景とは。

     

    信頼とはなにか

    1990年、福岡県に生まれ、ファッション業界に身を置きながら様々な経験を積んできた。大村美容ファッション専門学校を卒業後、セレクトショップ「DICE&DICE」に入社。そこで販売員として現場の最前線を経験し、その後、東京の「UNIX TOKYO株式会社」に転職。バイヤー業務に携わりながら、事業の構造や経営の視点を学んでいった。そして2022年、親会社のM&Aを機に、アクシス十和田の代表取締役に就任。経営者として改革に乗り出した。そんな泉がたどり着いたのは、誰もが「斜陽産業」と口を揃える縫製業界。しかも、青森。それでも泉は縁もゆかりもない土地に根を下ろす決断をした。

    泉は語る。「最初の一年は、本当に大変でした。そもそも私は縫製経験ゼロ、そして現場の職人さんたちは何十年も針を握ってきたベテランばかり。そんな皆さんの前に、突然30代の若造が現れて、社長だと言って…そりゃ反発だらけでした(笑)」

    そして代表に就任して間もないタイミングで、泉が聞いた言葉がある。「縫製技術が高い人ほど損をする」「孫(のような若い人)には縫製工場で働いてほしくない」衝撃を受けた。「そんなはずない。パリコレの洋服を縫っている職人たちが、自分の仕事を誇れないなんて、おかしい。」

    まず、信頼を築くことから始めた。毎日、一人ひとりに挨拶をする。時にはミシンの横に立ち、職人の手元を見つめ、学び続けた。社長という肩書きよりも、同じ場所で汗を流す仲間であること。それが、工場を動かす原動力になった。

    そして今、泉のその姿勢は確かな成果を生み出している。職人たちの間には新たな誇りが生まれ、工場の生産力も向上した。新規の取引先も増え、経営の安定化が進む。未来に向けた改革は続くが、確実にその基盤は築かれつつある。

     

    サステナブルとは「活かす」こと

    アクシス十和田は、1988年に創業した縫製工場だ。特筆すべきは、メンズ・レディースを問わず、ジャケットからパンツ、ワンピースまでフルアイテムを手掛ける技術力。国内トップブランド、mame kurogouchiやssstein、yohji yamamotoなどのコレクションアイテムを縫製している。

    しかし、時代は変わる。大量生産・大量消費の時代は終わり、個人ブランドが台頭する時代へ。そしてさらに時代は変わりつつある…泉はこの変化を見極め、工場の経営戦略をシフトした。「一つのアイテムに特化した工場では、生き残れない。多角的に対応できる柔軟性が求められると必然的に感じていました。」

    アクシス十和田は新たな取り組みを開始した。全国の縫製技術者と連携する「Sewing Office」、そして工場で余った生地(残反)を活用し、クッションカバーを製作・販売する「HOMESICK」である。「HOMESICK」はただのサステナブル商品ではない。根本的にサステナブルという言葉に違和感を覚える泉はこう語る。「本当にエコを考えるなら、そもそも洋服をつくらないのが一番のサステナブル。でも、私たちはつくる仕事をしている。ならば、この矛盾を一致させ、いかに価値を付与するべきかを考えるべきなんです。」「HOMESICK」は残反を組み合わせることで、サステナブルな商品かつ、世界に一つだけの商品を実現する試みである。泉はファッション業界とは異なる新たな市場へ挑戦している。

     

    アクシス十和田の目指す場所

    「青森の空気は、吸うだけで肺が喜んでいる気がするんです。」そう語る泉が率いるアクシス十和田が目指すのは、ただの縫製工場ではない。「まずは、従業員の給与を上げる。それが私の最優先課題だと捉えています。」労働環境を整え、働く人々が誇れる場所にする。その先に、業界の未来がある。小さな積み重ねが、大きな変化を生む。泉章太郎という人間がいる限り、アクシス十和田の未来は、確かに紡がれていくだろう。

    「未来のことを語る前に、目の前の人を幸せにする。大げさかもしれませんがそれができなければ、夢なんて語る資格はないと思います。」その姿勢は、まるで二宮尊徳の「積小為大」の哲学そのものだ。

    「何かに挑戦することに、完璧な準備はいらないと思います。私自身も未経験で飛び込んだ人間です。でも、やると決めたら、目の前のことに真摯に向き合い、積み重ねるしかない。今いる場所でできることを続けていれば、いつか必ず道が開けると思います。」挑戦を恐れず、目の前の一歩を踏み出すこと。それが未来を創る力になるのだ。

  • 株式会社BOOSTAR_岡本 星

    青森の厳しさがつくり上げた魂

    青森は、静かに燃える都市だ。白銀の冬が訪れ、春は一瞬にして駆け抜ける。短い夏は熱を帯び、秋は豊穣の気配を纏う。ここでは何事もじっくりと鍛え上げ、しっかりと成長することが求められる。それは土地の文化であり、人の気質だ。速さを求めず、確実な歩みを重んじる…そんな青森の地で、鍛え抜かれた身体と精神をもって、ある男が己の道を切り開いた。

    岡本星。パーソナルトレーナーであり、実業家であり、かつて大人気TV番組「SASUKE」に挑み続けた男だ。もちろん、彼の肉体は鉄でできているわけではない。しかし、彼の意志は鋼よりも強く、何度倒れようとも、また立ち上がる。岡本が創り出したBOOSTARは、単なるトレーニングジムではない。そこは、魂の試練の場であり、己と対話するための場所だ。

     

    池に沈んだ男が再び立ち上がるまで

    岡本の人生は、挑戦と闘争の連続だった。幼少期は野球に打ち込み、学生時代は夢中でバットを振った。しかし彼の胸の内には、もう一つの情熱があった。それが「SASUKE」だ。テレビで初めて観た瞬間、彼は雷に打たれたような衝撃を受けた。己の体一つで、己を超えていく。技術ではなく、道具ではなく、ただ純粋な身体能力と意志の力で前へ進む。それは彼にとって人生そのものだった。小学校5年生のときから応募を始めた。書類を送り続けた。8年間、計10回以上。しかし出場は想像をはるかに超える狭き門、倍率30倍以上を勝ち抜かなければならない。それでも、彼は諦めなかった。

    そして2012年、第28回SASUKE。岡本星はようやくその舞台に立った。興奮と緊張、すべてが入り混じる中で挑んだSASUKE。しかし、ファーストステージの3つ目のエリアで、岡本は無情にも池へと落ちた。敗北。しかし、敗北は終わりではなかった。それは新たな始まりだった。彼は、倒れるたびに立ち上がることを選んだ。倒れたなら、さらに鍛えればいい。跳べなかったなら、べるようにすればいい。彼は、悔しさを筋肉に変え、努力を力に変えた。日々の仕事の合間を縫い、トレーニングに励んだ。自動車関係の仕事に従事しながら、帰宅後はトレーニング器具を並べた6畳の部屋で鍛え続けた。しかし、再出場は叶わなかった。

    ならば、別の形で限界に挑むしかない。彼は新しいフェーズとしてパワーリフティングに目を向けた。純粋な力の競技。スクワット、ベンチプレス、デッドリフト。それらすべてを極めることで、己の強さを証明しようとした。そして、青森県大会66kg級で優勝。翌年も連覇し、記録を塗り替えた。だが、彼の目標はただの勝利ではなかった。彼は気づいた。「これを仕事にしたい」と。自分自身を変え、そして人々を変えることだった。単なるアスリートではなく、自らの経験を生かし、人々に貢献できる道を選んだのだ。

     

    そして経営者へ

    BOOSTARの誕生は必然だった。だが、現実は甘くない。最初の月の売上はわずか3万円。生活すらままならない状況だった。しかし彼は動じなかった。肉体だけではない、食事の管理、精神のサポート、ライフスタイルの最適化。来ていただいた方に岡本が持てるすべてを提供することで、彼はBOOSTARを「ジム」ではなく「人生を変える場所」にした。今では複数店舗以上を経営しており、2025年には5店舗目のオープンを予定している。

    ユージン・サンドウは、19世紀にボディビルの概念を世に広めた先駆者として知られている。彼は単なる筋肉の誇示ではなく「人間の肉体は芸術であり、鍛錬によって高められるもの」と説いた。サンドウはトレーニングの科学を研究し、解剖学的な視点から合理的なトレーニング方法を開発した。

    経営者としての岡本は、リピーターを生むための仕組みづくりに注力する。BOOSTARでは、短期的な結果ではなく、長期的な体質改善と継続を重視。個別のカウンセリングと遺伝子検査を活用し、科学的アプローチで最適なプランを提供する。分子栄養学に基づき、体を効率的に鍛えるメソッドを実践する現在のその姿勢は、まさにサンドウの哲学と共鳴しているといえよう。

     

    鍛えることは生きること

    岡本には、フィットネス業界全体に対する強い思いがある。日本のフィットネス人口はわずか3~4%。海外に比べ、圧倒的に低い数字だ。岡本は、ただトレーニングを教えるだけでなく、健康的なライフスタイルを広めることが使命だと考えている。そのためジュニアアスリート向けの食育講座や、法人向けの健康経営セミナーを開催し、企業や地域社会にも積極的に働きかけている。

    彼が目指すのは、「誰もが当たり前にフィットネスを取り入れる社会」だ。ダイエットや筋肉増強のためだけではなく、人生の一部として、日々のエネルギーを最大化するための手段として、フィットネスを根付かせる。これは、サンドウが19世紀に始めた「強さと美しさの調和」を現代に受け継ぐ試みでもある。青森で生まれたなら、その厳しい冬の中で「覚悟」を抱いて強くなれ。倒れてもいい。ただ、立ち上がれ。そして前へ進め。岡本星は、それを証明した男だ。

  • 合同会社杉山建築設計事務所_杉山 貴亮

    空間は語る

    青森県十和田市。奥入瀬渓流や十和田湖といった美しい自然に程近く、田園風景が四季折々の表情を見せるこの地は、昔から人々の営みと深く結びついてきた。明治時代以降、馬産地として栄えた歴史を持ちながら、現在では十和田市現代美術館をはじめとする芸術活動も盛んであり、アートと自然が共存する独特の魅力を持つ地域だ。そんな十和田で、杉山は土地に根づく建築のあり方を模索し続けている。彼の手がける建築は、その土地に息づく歴史や文化、人々の暮らしと、そこにある自然とのつながりを映し出す。彼の建築が風景の一部として馴染み、新たな価値を生み出していくことを、彼自身も大切にしている。

    幼い頃から体感してきた青森の空気、土地、そして人々のくらしを、彼は建築というかたちで再構築してきた。とりわけ印象的なのは、伝統や地域文化の“根”をしっかりと踏まえながら、新しい要素を建築のなかに織り交ぜるその大胆さである。古い家屋の梁に触れたときのぬくもりと、現代の技術が可能にする洗練が同居する空間。そうして生み出される、やわらかながらはっとする空間は、まるでゆっくりとランプが灯り、物体の輪郭が浮かび上がるように、人々の営みをやさしく照らし出す。

    彼は建築を通して空間を物語る。その語り口は、土地の記憶や人々の営みを包み込み、未来に向けた問いを投げかける。杉山貴亮。青森を舞台にこの建築家が綴る物語は、まだ序章が始まったばかりである。

     

    “建築とは何か”見つめ直す日々

    メキシコ人建築家のルイス・バラガン(1902–1988)。その美学はル・コルビュジエの影響を受けながらも、モダニズムの中に心の静寂を織り込む独自の世界を築いた。大胆な色彩と削ぎ落とした構成が空間に静寂を生み、壁や水面、陰影までも精緻に計算される。1980年にプリツカー賞を受賞し、その静かな衝撃は今なお世界を震わせ続ける。

    杉山の建築との出会いは偶然だった。高校生の時にテレビで目にしたバラガン建築。その世界観に強烈に魅せられた杉山は進学先での専攻を建築学に決めた。大学で建築の専門知識を体系的に身につけ、建築の“構造”と“表現”を融合させる奥深さに惹き込まれていった。建築を学ぶ日々は新鮮な学びの連続で、これまでの人生で最も価値観を揺さぶられた時期だったという。知識を吸収し、挫折を重ね、成長していく。彼の中で建築は単なる職業ではなく、生き方そのものになっていった。

    大学卒業後、東京や神戸でいくつかの設計事務所に勤め研鑽を積みつつ、自分はこの仕事を通して何を残せるのか、自問を繰り返す日々を送った。趣向の異なるクライアントに予算、スケジュール、建築基準法をはじめとした法令に関する知識や申請関係の手続き資料、調査・測量など、デザイン以外の業務をすべて問題なくこなしたうえで、感性に響く建築を作り上げるということが、本当に大変なことだと知った。設計事務所でのキャリアは単調なものではなく、大学卒業から10年あまりの間に、常識や自身が囚われていた価値観を見つめ直す機会を幾度も経験した。

    なかでも広島県因島で、一連の健康食品会社のプロジェクトに携わった6年間は、彼にとって特別な時間だった。青森とは全く異なる、瀬戸内海に島々が浮かぶ自然の風景と、そこに繰り広げられる日常を捉えながら建築を構想していく仕事だった。環境が異なることで求められる建築のあり方が変わる部分もあれば、共通する部分もあり、建築のリアリティがひとつではないということを学んだ。また、業務の面では建築単体の設計だけでなくデザイン監修やプロジェクトマネジメントにも携わり、建築という仕事の全体像を見渡す視点を培った。「ひとつの仕事の中に多くの出会いがあり、変わるもの、変わらぬものを見た」と杉山は語る。6年間という時間は、彼に洞察力を教え、長期プロジェクトが完成した達成感は、彼に建築家としての自信を与えた。

     

    「生きた空間」としての建築

    創業にいたるまでに経験を積んできた中で、建築とは単なる物体のデザインの追求ではなく「人々の暮らしをかたちにあらわすこと」であることを学んだという杉山。「建築を必要とするクライアントの現実的な課題に応えることが最も大切です。」と語る彼が目指すのは、建築を『作品』としてではなく、『生きた空間』として機能させることだ。建築は人が生き、働き、休むための器であり、その器がどのような佇まいを持つかで、人の行動や気持ちは大きく変わる。もちろん、そのフォルムや素材使いなど、審美的な美しさもまた、器としての大切な機能のひとつである。

    ただし、建築の美しさとは、建物単体の造形のみにあるのではなく、その場の空気、時間の流れ、使う人の記憶とともに醸成されるもの。たとえば、朝陽が差し込む窓辺、夏の涼やかな風が通る廊下、冬に家族が集まる温もりのある居間…これらはすべて、設計の意図によって生まれる。杉山の設計では、光と影のバランス、空間の広がりや圧縮、建物と周囲の関係性が繊細に計算されている。そうして、建築が『そこにあるべくして生まれた』ような空間を意志を持って生み出すことで、そこに住む人々が「この場所にいることの心地よさ」を意識して感じられるようになる。そうした空間での日常は、より“美しく”濃密な時間の流れを生む、と彼は信じている。

    そして2018年11月、満を持して青森県十和田市にて独立。クライアントや職人をはじめ、協業者とのコミュニケーションを大切にする姿勢をモットーに、青森だからこそ生まれる建築を追求し始めた。若い感性と土地への愛着が融合した彼のデザインは、瞬く間に評判を呼び、仕事の幅も広がっていった。こうして「杉山貴亮」という名は、地元・青森に新しい風を送り込む建築家として、少しずつ確かな存在感を示しはじめたのである。

     

    共通の価値観で特別な建築を

    建築の仕事に取り組むうえで、杉山がもっとも大切にしているのは「全員が良いと思える建築を目指す」という視点だ。言い換えるならば、「一部の人だけが評価する建築」ではなく、「すべてのひとが自然と受け入れ、長く愛せる建築」を目指している。全員が良いと思うこと、それは妥協や中庸ではない。例えば、川沿いの家を設計するなら、その川のせせらぎをどう生かすかを考える。街中の喧騒から逃れるための静謐な空間を作る工夫も、彼の得意とするところだ。光や風といった、本能的に誰もが感じ取れる快適さにフォーカスし、その場にもともとある魅力を高めるための建築を考えるのだ。杉山の設計には、五感に訴えかける心地よさがある。日の光、風、緑、空。これらを意識することで、どんな人にも心地よい空間が生まれる。「建物のフォルムが美しく、使われる素材の手触りが良く、動線が適切であること。そういった細部への気配りが、誰にとっても心地よい空間を生み出す要素になります。」

    自身の設計においてそれは、ただ美しさを追求するのではなく、環境や歴史、そしてそこに住む人々の想いを織り込んでいくことだ。『建築とは自然の一部であり、我々の営みもまた自然の一部です。建築は人の営みから生まれ、人の営みは建築から生まれます。』という彼の言葉は、すべての設計に息づいている。建築を通して生まれる「自然の記憶」そしてそれが次の世代へとつながり、さらに価値を持ち続けることこそが、本当に「全員が良いと思える建築」なのだと彼は信じている。

    光や影、風や土や緑を愉しむ空間を志向することで、自然の中に佇む快楽を得られる建築を目指す。極端な形状や高価な素材を用いずとも、そうした“場を捉える視点”に依って設計することにより、多くのひとの理解を得られると信じている。だからこそ合同会社杉山建築設計事務所では、新築でもリノベーションにおいてでも、そこに住まう人や利用する人の動作や心理を思い描き、それらを包む光や色、空間を丁寧に紡いでいくアプローチを選んでいる。

    また、建築は多くの人の協力によって成り立つ。クライアントだけでなく、行政機関、地域の住民、施工業者、職人など、多くの関係者が関わる。さらに、建築は10年後、20年後にも影響を与える存在だ。「だからこそ、一部の人だけでなく、できるだけ多くの人が納得し、愛着を持てる建築を作ることが重要です。」

     

    環境は活かすもの

    そしてもう一つ、彼が大切にしているのは「どんな場所でも魅力的な空間をつくることが可能である」という信念だ。それは理想論ではない。たとえ周囲を無機質なコンクリートに囲まれた狭小地であっても、採光や通風、視線の抜けを緻密に計算することで、驚くほど開放的な空間が生まれる。都市の喧騒の中にあっても、壁一枚の素材選びや、光の取り込み方一つで、そこに佇む人の感覚を変えることができる。建築は、どんな環境にあっても、工夫次第で心地よい空間を生み出せる。

    どのような条件であっても、工夫することにチャレンジできるか否かが、建築の良し悪しを左右するとともに、そこにくらすひとの人生を左右する。「暗く湿った場所でも、光の取り入れ方や素材の工夫で心地よい空間は作れます。どんな条件でも、そこにしかない魅力を引き出すことが、建築の醍醐味です。」

     

    夢には空間がある

    杉山の仕事への向き合い方は、ひたすら真摯だ。大きく構えず、自分ができる範囲で確実にクライアントが喜ぶ仕事をすることに集中している。現在彼が手掛ける案件はすべて、これまでのクライアントからの紹介や知人を通しての出会いなど、等身大のコミュニティからつながっている。彼の建築を求める人の輪が徐々に広がっている証拠だ。

    目の前のクライアントに精力を傾けるのと同時に、杉山は仕事を楽しみ、建築を楽しむことを多くのひとに伝えようとしている。そして大人が楽しく仕事をする姿を子どもたちに見せる。それが未来への贈り物になるという信念が彼にはある。「自分が携わった建築が地域に馴染み、子どもたちの記憶に残るようなものになれば、それ以上の喜びはありません。」

    青森の豊かさは、決して特別なものではなく、当たり前の暮らしをどれだけ楽しみ、共有できるかで決まる。彼の創造はこれからも青森に新しい息吹をもたらし、地域に根づいた「夢」の空間が未来へと受け継がれていくだろう。その姿を見守りながら、私たちは、そこに生まれる次の物語を心待ちにしている。なぜなら、私たちが夢を思い描く時、そこには必ず空間があるのだから。

     

     

    杉山建築設計事務所アトリエ 外観 photo Kuniya Oyamada
    鳥曇 ギャラリー部分 photo Kuniya Oyamada
    AURUM MISAWA ロビー部分 photo Kuniya Oyamada
    杉山建築設計事務所アトリエ 内観 photo Takaaki Sugiyama

  • 株式会社高橋製作所_田中 大志

    大型設備の「医師」

    ジャック・ウェルチがGEの経営を担ったとき、彼が最初に行ったのは「変革」だった。旧態依然とした組織にメスを入れ、現場の声を吸い上げ、スピードと柔軟性を兼ね備えた企業へと生まれ変わらせた。そのカリスマ性と実行力は、多くの経営者の指針となった。青森県八戸市にも、彼のようなリーダーシップを発揮する人物がいる。それが、株式会社高橋製作所の代表取締役社長、田中大志である。

    高橋製作所は戦後の混乱の中、八戸の地で産声を上げた。元々は東京都蒲田で飛行機部品や発電機を製作していたが、戦災により工場を失い、再起の地として八戸を選んだのである。船舶エンジンの修理から始まり、産業機械、鋼構造物、搬送設備など、大型の設備製造へと業態を拡大。日本の産業基盤を支える企業として、今日まで成長を続けている。

    八戸という地方都市でありながら、高橋製作所の技術力は全国屈指だ。30トンのクレーンを2基備え、東北最大級の製造設備を持つ。その規模と技術力により、同業他社が手を出せない案件にも挑戦し続ける。「ここで作れなければ、関東まで行くしかない」と言われるほど、地域にとって不可欠な存在である。高橋製作所は、ただの製造業ではない。産業の根幹を支える「機械の医師」として、社会の血流を滞らせることなく、未来を切り拓いていく。その最前線に立つ田中大志は、挑戦を恐れず、常に新しい価値を創造し続けるリーダーだ。

     

    課題を分解し、文化を創造する

    彼の経歴は異色である。東京理科大学の修士課程を修了後ソニーに入社。最初はテレビの設計に携わり、その後カメラの開発へと異動。そのとき彼が手掛けたのは、プロフェッショナル向けの特殊撮影用カメラだった。並み居るエンジニアが「実現は難しい」と口を揃える中、彼はチームを率い、見事成功へと導いた。そのとき彼が大切にしていたのは、「メンバーがやりたいことを死守する」ことだったと語る。技術者の才能を信じ、チームの意見を最大限に尊重する。これは、彼が八戸に戻り高橋製作所で構築してきた環境そのものだ。

    そして高橋製作所の経営者として、彼が最初に取り組んだのは「変革」だった。ジャック・ウェルチがGEの文化を徹底的に改革したように、田中は「昔ながらのやり方」にメスを入れた。地方の中小企業にありがちな「前例踏襲主義」を打破するためDXを推進。勤怠管理システムの導入一つとっても、反発はあった。しかし、彼は丁寧に現場の声を拾い、課題を具体的に細かく分解し、一つずつ、しかし確実に前進させた。その成果は目に見えて表れた。今では社員自らがタブレットを導入し、業務の効率化を提案するまでになっている。

    高橋製作所のDXの軌跡は、単なる技術導入ではなかった。最初はメールすら使いこなせない環境だったが、まずは勤怠管理、次に社内情報共有、やがて設計のデジタル化へと進化した。田中は一つ一つの壁を壊しながら、社員の意識改革を進めていった。その過程で、社員が「自ら提案する」文化が生まれた。変革はトップダウンではなく、現場が主体となって動く。これは、田中が創り上げた最も大きな成果の一つだ。

     

    刹那的に生きること

    彼の信念は「刹那的に生きる」こと。これは、一瞬一瞬を全力で生きるという意味だ。「今この瞬間、全力を尽くせなければ、未来もありません。」彼のこの言葉は、仕事のすべてに貫かれている。

    この姿勢は、彼のマネジメント手法にも色濃く反映されている。ただ現場に指示を出すのではなく、社員一人ひとりと対話し、それぞれが最大限に力を発揮できる環境を整えることに注力していると語る。彼が特に重視しているのは、社員の意見を真剣に聞くことだ。「経営層が思うことと、現場で実際に感じていることは違う。そのギャップを埋めるために、意識的に話をする時間を都度都度でしっかりとつくります」と彼は語る。その結果、社員の主体性が育まれ、今では現場から改善提案が出ることも珍しくなくなったという。

     

    仕事に正解なんてない

    田中大志は「考え、行動し、変わること」を信条とする。どんな仕事にも正解はない。むしろ、自分で道を作ることが求められる時代だ。失敗を恐れず、やりたいことを貫き、仲間とともに挑戦し続けることが、真の成長につながる。

    さらに、彼が最も重視するのは人材育成だ。技術がどれだけ進化しても、それを使いこなすのは「人」である。社内には代表自ら研修制度を整え、技術習得だけでなく、リーダーシップやマネジメントスキルの向上にも力を入れている。「学び続けることが、企業の成長を支える。」その信念のもと、高橋製作所は日々進化し続ける。

    ジャック・ウェルチがGEを世界的な企業へと変貌させたように、田中大志の挑戦は高橋製作所を次の時代の扉へと導く。彼の視線の先には、何があるのか。

  • 東和電材株式会社_榊 美樹

    東北全域を支える電設資材の要

    日本の最北端に位置する本州の玄関口であり、四季折々の豊かな自然に囲まれた地、青森市。冬の厳しい寒さと、夏の短い爽やかな気候が特徴的であり、その自然環境が市民の生活や産業にも大きな影響を与えている。また文化的にも豊かであり、ねぶた祭りなどの伝統行事が全国的に有名だ。これらは地域のコミュニティを強く結びつけるとともに、観光資源としても高い価値を持っている。そんな東北の厳しい寒さのなかにあって、地域の電設資材業界を支え続ける企業がある。

    東和電材株式会社。青森を拠点に、東日本一円へと事業を展開し、時代の変化とともに進化し続けるこの会社を率いるのが、代表の榊美樹だ。1956年の創業以来、電設資材の製造・販売を中核とし、青森の地で成長を続けてきた東和電材。創業者である榊の父のもとで、会社は少しずつ規模を拡大し、電気工事業界における確固たる地位を築いていった。

    今、代表を務めている榊の経営哲学は、一見すると実直で堅実なものに見える。しかし、その本質はむしろ、挑戦と変革の連続という表現がふさわしい。彼の経営スタイルは「企業とは生き物であり、成長し続けなければならない」という信念に裏打ちされている。その視線は、過去の成功に甘んじることなく、つねに未来を見据えている。

    しかし、榊がこの企業の舵取りを担うまでの道のりは、決して平坦なものではなかった。

     

    “2年”の覚悟

    榊は青森大学卒業後、東京へ渡り就職する。就職したのは主に自動車部品を扱う矢崎総業株式会社。特に自動車用ワイヤーハーネスは世界首位を誇るなど、今も世界的に活躍を続けている企業である。そこでは日本経済の中心地である丸の内や大手町での営業を経験し、電設業界の本質を肌で感じる日々を送った。このとき、彼が未来に描くべき経営者としての基盤が形作られたという。

    だが、運命は思わぬ形で彼を青森へと呼び戻す。31歳のとき、家業である東和電材への入社を決意する。最初から経営の中枢にいたわけではない。彼は営業・管理・財務などすべての部門を社員から経験し、約10年の歳月をかけてある種の「帝王学」を学ぶこととなる。会社のあらゆる部門を知ることで、自身が経営者としてどうあるべきかを深く考えたと榊は語る。

    その過程で、彼は幾度も岐路に立たされた。特に、38歳のとき、父から突然「社長を継いでくれ」と告げられたそのときには、覚悟ができていないと判断し、「あと2年くれないか」と猶予を求めた。そして確保できたこの2年間は、彼にとって極めて密度の濃い時間だった。

    研修、国内外の視察、経営者としての哲学の確立…榊がこの2年間で学んだのはただの知識ではない。企業が生き延びるための本質的な視点そのものであった。経営は数字だけでなく、人、文化、地域社会との関係性によって成り立つものだと痛感したのである。青森という土地で生き続ける企業として、何を大切にし、どのようなビジョンを持つべきかを深く考え、その想いを社内に浸透させていく決意を固めた。この決意こそが、後の東和電材の飛躍へとつながっていったのである。

    そして、あらゆる準備を整え、40歳で正式に代表取締役社長に就任する。

     

    企業に必要不可欠な「ビジョン」

    榊の経営思想には一つの特徴がある。それは「長期的な視点」だ。彼は短期的な利益を求めるのではなく、10年、20年先を見据えた経営を続けている。

    彼は言う。「経営は1日1日の積み重ねです。でも、企業としてどこを目指すのか、社員が同じ方向を向くためには、しっかりとしたビジョンが必要不可欠です。」彼が語るその「ビジョン」とは、単なる目標設定ではない。それは企業が社会に対して果たすべき使命を意味するのだ。

    榊にとって、企業とは単に利益を追求する組織ではなく、社会の一員として責任を果たす存在だという。彼は「経営とは社会と共に歩むもの」という考えのもと、長年にわたり企業の成長とともに地域社会への貢献を続けてきた。彼にとって、社員が誇りを持てる会社であることはもちろん、その会社が属する地域が繁栄し、豊かであることもまた重要な要素なのだ。

    最近では、SDGsの視点を経営に取り入れ、エネルギー・環境・防災に関連する事業にも積極的に参画。気候変動への対応や省エネルギー設備の導入推進など、環境負荷を軽減する取り組みを進めるとともに、災害時に迅速な電力供給が可能となるインフラ整備にも関与している。さらに、地元のジュニアサッカー支援を通じて、次世代の育成にも力を入れている。スポーツを通じた青少年の教育や地域コミュニティの活性化に貢献することで、長期的な地域社会の発展を支えていきたいという思いがある。

    「企業とは単に売上を上げる場所ではなく、未来を創造する場である」という榊の言葉には、彼の経営に対する深い哲学がある。事業を通じて社会を支え、人々の暮らしをより良くするという理念が、東和電材の活動の根幹を成しているのだ。

     

    経営とは未来をつくること

    アメリカの19世紀の思想家ヘンリー・デイヴィッド・ソローは「所有せず豊かに生きる」という哲学を提唱し、自然の中で質素に暮らすことを選んだ。しかし、彼の本質はただの隠遁などではない。「自分の人生をどうコントロールするか」にあったのだ。彼は単に物質的な豊かさを捨てることで精神的な充実を得ようとしたのではなく、むしろ「何を持ち、何を持たないか」を意識的に選択しながら生きることの重要性を説いた。これは単なる自己満足ではなく、社会とどう関わるか、どのように自分の役割を果たすかを考えるための手段だった。

    榊もまた、経営の世界において同じような視点を持つ。彼にとって企業は単なる利益を生み出す機関ではなく、地域社会の一員としてどのように役立つかを考え続ける存在である。だからこそ、短期的な売上や市場シェアに執着するのではなく、長期的なビジョンを持ち、社員や地域とともに成長することを大切にしている。

    「会社経営は、ある意味で自己の生き方を決めることと同じだ」と榊は語る。「何を優先し、何を犠牲にするのか。短期的な成功に満足するのか、それとも未来を見据えて持続可能な道を歩むのか。これは、個人の生き方と企業のあり方が交差する瞬間だ。」

    「経営とは、未来をつくること」…榊の人生は、まさにこの言葉に集約される。彼は過去の成功に満足することなく、つねに未来へと目を向けている。その背中を追う社員たちがいる限り、東和電材はこれからも地域とともに歩み続けるのだ。

  • 株式会社藤林商会_藤林秀樹

    見えない恐怖に挑む男

    安倍晋三という政治家の生き様は、日本の未来に対する確固たる信念の象徴だった。彼は困難の中で決断し、国家の方向性を見極め、日本のために命を燃やした。政治の世界において多くの人々が安易な妥協を選ぶ中で、彼は日本という国を信じ、真のリーダーとしての責任を全うした。

    彼の行動には常に確固たる理念があった。国を守るとは何か、日本の未来を形作るとは何か。そこには表舞台で語られることのない無数の戦いがあったはずだ。どれだけの困難が訪れようとも、彼の目は決して曇らなかった。そんな時代に、同じように強い信念をもって戦い続ける男がいる。藤林秀樹、彼は目に見えない死の粉、アスベストという静かなる脅威と向き合い、日本の未来を守るために人生を賭けている。

     

    業界の未来を変える技術

    藤林秀樹、1952年生まれ。青森県南津軽郡藤崎町に生を受けた彼は、父が立ち上げた藤林商会を継ぎ、建設業の世界に身を投じた。だが、ただ仕事をこなすだけの男ではなかった。「社会が何を求めているのか」を見極め、その最前線に立つ。それが彼の生き方だった。彼が目をつけたのがアスベスト問題だ。かつては「奇跡の鉱物」とまで呼ばれたアスベスト。しかし、その実態は静かに人々の命を蝕む猛毒だった。日本中に無数の建物が建てられ、その壁の奥深くにアスベストは潜んでいる。そして解体の時が来るたびに、微細な繊維が舞い、人々の肺へと侵入する。数十年後、気づいたときには手遅れ…そんな死のシナリオが今も続いているのだ。

    特に青森県は、全国的に見ても「短命県」として知られている。喫煙率が高く、寒冷な気候の影響で運動不足が常態化し、健康リスクが高い地域だ。だが、藤林はこの「短命県」の汚名を返上しなければならないと考えた。そこで藤林は単に健康意識を向上させるのではなく、目に見えない死因;アスベストの危険性を広め、より安全な環境を整備することで、青森県の未来を変えようと決意したのだ。

    藤林の決意をより確固たるものにしたのは、身近で起きた悲劇だった。彼の会社へ出入りしていた40代の電気工事会社社長が、中皮腫という不治の病を発症し、一年もたたずにこの世を去った。前職の現場でアスベストを吸い込んだことが原因だろうと藤林は語る。彼には家族がいた。妻がいて、子どもがいた。だが彼は病に倒れ、家族を残してこの世を去らなければならなかった。これは他人事ではない。全国の至るところで、過去の過ちが今になって人々の命を奪い続けている。

    だからこそ藤林は立ち上がった。1999年、彼は藤林商会の代表取締役に就任。そして、アスベスト除去を徹底的に研究し、日本の未来を守る道を選んだ。その結果生まれたのが「Hi-jet工法」だ。Hi-jet工法は、従来のアスベスト除去とは一線を画す技術だ。水の力を利用し、超高圧でアスベストを湿潤状態のまま除去することで、粉じんの飛散を劇的に抑えた。これは作業員の命を守り、周辺住民への被害も最小限に抑える革命的な手法だった。だが、藤林はこの技術を独占しなかった。むしろ全国の企業と共有し、業界全体のスタンダードにしようと動いた。彼が立ち上げたHi-jetアスベスト処理協会には、全国30社以上が加盟し、より安全なアスベスト除去を推進している。

     

    終わらない戦い

    しかし、藤林の戦いはまだ終わらない。今、日本では年間1,500人以上がアスベスト関連の疾患で命を落としている。それはもはや過去の問題ではなく、現在進行形の惨劇だ。だが、この1,500人という数字は、労災として認められた「中皮腫」による死亡者数に過ぎない。実際には、アスベストを原因とする肺がんなどを含めると、日本国内の年間死亡者数は推計で2万人を超える(世界疾病負荷:GBD推計)。見えない死の粉は今もなお、日本の空気の中に潜み、静かに命を蝕んでいる。それにもかかわらず、日本のアスベスト除去基準は、欧米と比べて驚くほど緩い。彼はそれを変えようとしている。技術の向上だけでなく、行政や政府への働きかけを行い、日本の未来をより安全なものへと導こうとしている。

    藤林の座右の銘は「自他力本願」。自らの力で道を切り拓くと同時に、周囲の協力を得て社会を変えていく。それは決して独善的な戦いではない。彼はすでに次の世代を見据え、息子への事業継承も視野に入れている。彼が築き上げたものは、単なる企業の成功ではなく、日本全体の「安全な未来」なのだ。時代は変わる。人々の意識も移り変わる。だが、見えない問題に目を向け、根本から解決しようとする者は多くはない。その数少ない一人が藤林秀樹だ。

    日本の未来を守る男。その名前を、我々は刻むべきだ。