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  • 株式会社津軽サンロード_菊池 祐司

    本州最北端、青森県。冬には厳しい雪が降り積もるこの地で、人々の生活の根幹である「道路」を守り続ける企業が株式会社津軽サンロードだ。平成7年の創業以来、高速道路から一般道、駐車場の舗装工事、そして冬場の除雪業務までを手掛け、地域のインフラを支え続けてきた。
    「モノづくりは、人づくり」
    そう語るのは、同社を率いる代表取締役の菊池だ。一度は建設業界を離れようとした彼が、なぜ再びこの道に戻り、社長として陣頭指揮を執るに至ったのか。東日本大震災という未曾有の経験を経て確信した「仕事の誇り」そして高齢化が進む業界で次世代を育てるための覚悟とは。

    偶然の入社から、運命の再建へ

    菊池と建設業との出会いは意外にも「偶然」に近いものだったという。高校卒業後、就職先を探していた際に目にした求人票。数ある企業の中で、給料の条件が良かった会社をたまたま選んだ。それが、日本道路グループの協力会社であり、現在の津軽サンロードの前身となる会社だった。
    「最初は『何を作っているのか』すらよく分かっていませんでした。ただ入ってみたら、それが道路を作る仕事だったんです」
    しかし、その道のりは平坦ではなかった。一度は会社を辞め、地元を離れて東京で別の仕事に就いた時期もある。転機が訪れたのは、かつての上司からの連絡だった。「会社が厳しい状況にある。戻ってきてくれないか」当時、会社は経営体制の刷新を迫られ、存続の危機に瀕していた。菊池代表の脳裏に浮かんだのは、かつて共に汗を流した職人たちの顔だった。「自分が戻らなければ、この会社はどうなるのか」義理人情に厚い菊池は再建のために青森へ戻る決意を固める。
    「一度辞めた人間が戻ることに葛藤はありましたがやるしかなかった。先代の社長からバトンを受け取り私が代表になったのは会社をそして従業員を守るためでした」

    それは、単なるキャリアの選択ではなく、共に働く仲間への責任感が導いたリーダーへの道だった。
    雪国・青森の宿命と、3.11で刻まれた「誇り」
    津軽サンロードの事業は、青森の気候と切っても切り離せない。4月から12月までは舗装工事などの土木事業に邁進するが1月から3月は深い雪に閉ざされる。この期間、同社は除雪業務で地域の交通を守る一方、工事の仕事が減る冬場は、全国へ出稼ぎに出て現場をこなすこともあるという。
    「青森にいると、どうしても冬場は仕事が限られます。しかし、社員の雇用を守り、技術を維持するためには、場所を選ばずに働き続ける必要がありました」
    そんな厳しい環境下で働く菊池にとって仕事への意識が劇的に変わる出来事があった。2011年3月11日東日本大震災。 当時、東北の地で目の当たりにしたのは崩壊した道路と寸断されたライフラインだった。物資が届かず、救助もままならない状況下で最初に行われたのが「道路の啓開(けいかい)」だった。ガタガタになった道を直し車が通れるようにする。それが復興の第一歩だった。
    「それまでは、ただ言われた通りにアスファルトを敷いていただけだったかもしれません。でも、震災の現場を見て気付いたんです。私たちが作っている『道路』が、人々の命を繋ぎ、生活を支えているのだと」
     当たり前のように存在する道路が、いかに尊いものであるか。その重みを知った時、菊池代表の中に揺るぎない「職業への誇り」が生まれた。
    「道路を作ることは未来を作ること」その確信が現在の津軽サンロードの原動力となっている。

    「モノづくりは人づくり」背中で語るリーダー論

    菊池が経営において最も大切にしている哲学、それが「モノづくりは人づくり」だ。
    「どんなに良い機械があっても、最後にそれを使うのは『人』です。舗装の仕上がり、見た目の美しさ、耐久性。それら全てに作り手の心が表れます。適当な気持ちでやれば、それは必ず現場に残るんです」
    建設業界は今、職人の高齢化という深刻な課題に直面している。津軽サンロードも例外ではない。「ロートル(老兵)ばかりですよ」と菊池は冗談めかして言うが、そこには長年現場を支えてきたベテラン職人たちへの深い敬意と愛情が滲む。
    「60代、70代になっても現役で現場に出ている彼らがいるから、今の会社がある。彼らの経験と技術は宝です。ただ、それだけでは未来がないのも事実です」
    だからこそ、菊池代表は「背中で語る」リーダーシップを貫く。口先だけで指示するのではなく、自らが現場を知り、汗をかく。
    「私は言葉で理路整然と説明するのは苦手なんです。だから、態度で示す。社長室にふんぞり返るのではなく、現場の痛みも喜びも共有する。それが私のやり方です」
    その姿勢は、若手社員だけでなく、ベテランの職人たちにも伝播し、社内には「良いものを作ろう」という無言の結束力が生まれている。

    次世代へ繋ぐバトンと、未来への夢

    「今の若い子たちは、私たちの時代とは違う。だからこそ、彼らが『入りたい』と思える会社にしなければなりません」
    菊池の視線は、既に次の時代を見据えている。ベテランの技をいかに若手に継承するか。そして、若手が希望を持てる建設業をどうデザインするか。
    「3K(きつい、汚い、危険)と言われる業界ですが自分たちが作った道路が地図に残り、地域の人に使われ続ける喜びは何物にも代えがたい。まずは3年。石の上にも三年と言いますが続けてみてほしい。そこから見える景色が必ずあります」
    菊池には、密かな夢がある。それは社内で「野球チーム」を作ることだ。
    「若い社員が増えて、仕事終わりにみんなで野球をして、汗を流す。そんな活気ある会社にしたいんです。仕事だけでなく、仲間と共に生きる楽しさがある。そんな場所なら、きっと人は育つはずです」
    雪深い津軽の地で、道路というインフラを守り抜く株式会社津軽サンロード。 「モノづくりは人づくり」という信念のもと、菊池は今日も現場と向き合い、ベテランの熟練の技と若手の新しい力を融合させようと奔走している。
    その道は確かに次の世代へと繋がっている。
    道を創り、人を創る

  • 島守経営労務事務所_島守 雅之

    八戸から発信する、人と企業の「幸せな循環」

    かつてピーター・ドラッカーは「組織の目的は、凡人をして非凡なことをなさしめることにある」と説いた。組織の中で働く「人」が最大限の力を発揮できる環境を整えることこそが、経営の核心であるという意味だ。
    青森県八戸市に拠点を置く島守経営労務事務所の代表、島守雅之氏は、まさにこの哲学を体現するスペシャリストである 。社労士・行政書士として、就業規則の作成から社会保険手続き、建設業・産業廃棄物処理業の許可申請まで幅広く手掛けるが、その活動の根底にあるのは「経営者も社員も、両方が良くなるためのバランス」を追求する姿勢だ 。企業が長く繁栄するために、どのようなバランスでアドバイスをすべきか 。島守氏の眼差しは、常に「企業の永続性」と「そこで働く人の幸せ」の両方に向けられている 。誰かが犠牲になるのではなく、全員が「Win-Win」になれる関係性こそが、彼の目指す事務所のこだわりなのだ 。

    「人こそが企業の業績を左右する」

    島守氏が自身の事務所を立ち上げたのは、2000年1月のことだった 。それ以前は行政書士事務所で5、6年ほど経験を積んでいたが、当時は資格そのものよりも
    「これから何が社会に必要とされるか」という未来への展望が彼を突き動かしていた 。

    「企業の業績に直結するものは人材であり、そこが一番大事になるだろう」

    当時、島守氏が抱いたこの直感は、労働力人口の減少や価値観の多様化が進む現代において、揺るぎない真実となった 。意外にも、親族が同業だったわけではなく、たまたま就職した先でこの仕事に出会ったという島守氏 。
    本人は「運が良かっただけ」と謙遜するが、資格者の話を真摯に聞き、
    必要性を察知して学び始めたその先見の明こそが、現在の事務所の礎となっている 。

    正解のない時代に、寄り添い、並走する覚悟

    現代の労務管理に、一律の「正解」は存在しない。働き方改革が進む一方で、最低賃金の上昇に伴う給与体系の見直しや、組織の生産性を左右するハラスメント対策など、企業が直面する課題は複雑さを増している 。島守氏のもとには、日々こうした「正解のない問い」が寄せられる。
    特に最近では、優秀な人材の離職を防ぐためのハラスメント対策や、社員のモチベーションに直結する報酬制度の相談が急増しているという 。

    「残業してでも稼ぎたい人もいれば、プライベートを優先したい人もいる。価値観が多様化している今、一律に規制することの難しさを感じています」と島守氏は語る 。

    だからこそ、彼は経営者と社員の間に立ち、双方が納得できる「ルール作り」に
    心血を注ぐ 。それは、単なる法律の適用ではなく、企業の個性に合わせた「並走」に他ならない 。

    自らを「働き方改革」の実験場とする

    島守経営労務事務所の大きな特徴は、その組織体制にある。現在、代表を含めて24名ものスタッフが在籍し、その中には5名の社会保険労務士と2名の行政書士が含まれる 。これほど多くの資格者を抱える事務所は、青森県内でも非常に稀有な存在だ 。
    彼が目指すのは、単なるアドバイザーにとどまらない「実践者」としての姿である。

    「まずは自社で働き方改革を実験し、成功したものをお客様に伝えていきたい」

    社員と一緒に試行錯誤しながら、ストレスのある中でも仕事を楽しめる職場環境を自ら体現する 。その実体験に基づいた説得力こそが、多くの経営者から信頼を寄せられる理由であり、事務所が地域で重宝される所以だろう 。自社の改革を通じて得た知見を惜しみなくクライアントへ還元し、地域全体の「働く」の質を底上げしようとしている。

    人間にしかできない仕事を求めて

    「この会社に勤めて良かった、そう言ってもらえること。それだけです」
    それは自社の社員に対しても、そして顧問先の社員に対しても同じである
    これから士業や経営の道を目指す次世代に向けて、島守氏は「人間がやるべき仕事」の本質を説く。AIやコンピューター、ロボットで代用できる単純な作業は技術に任せ、人間はよりクリエイティブで、人間同士の対話が必要な「やりがいのある仕事」に集中する 。そんな職場作りをサポートすることこそが、島守氏が考える「働き方改革」の真髄なのだ

    「仕事の苦痛な部分を取り除き、人間がやるべき仕事をやっていく。そんな仕事をしたい方は、ぜひこの業界に来てほしい」
    八戸の地から、人と企業の輝く未来を切り拓く島守氏の挑戦は、これからも「人」への深い信頼と共に続いていく。

  • 東北海洋作業株式会社_岩谷 多加夫

    南部ダイバーの伝統と進化、深海に挑む哲学

    本州の最北端、岩手県。太平洋に面したこの地には、古くから「南部ダイバー」として知られる潜水士たちの伝統が息づいている。NHKの連続テレビ小説『あまちゃん』でその名が全国区となった岩手県立種市高等学校(種市高校)海洋開発科を筆頭に、日本有数の潜水技術を持つ人材を輩出し続けてきたこの地域で、新たな挑戦を続ける企業が青森県三戸郡階上町に拠点を構える東北海洋作業株式会社だ。率いるのは、自身も南部ダイバーの家系に生まれ、日本の海洋土木の最前線で40年以上戦い抜いてきたベテラン、代表取締役の岩谷多加夫。

    「潜水作業といえば、ヘルメットを被った重厚な姿を思い浮かべる人も多いでしょう。しかし、現代の海洋土木は、より高度で、より安全な技術へと進化しています」
    そう語る岩谷に、深海という過酷な現場で培われた哲学と、次世代への想いを聞いた。

    南部ダイバーのDNAと東京での挑戦

    戦後、沈没船の引き揚げ(サルベージ)作業などで活躍した先代たちの背中を見て育った岩谷にとって海は生活の一部であり仕事場となることは自然な流れだったという。地元の種市高校で潜水技術の基礎を学び、卒業後は東京へ。就職先は、国内最大手の海洋土木会社の一つであり、深海探査や大規模な水中工事を手掛ける「アジア海洋株式会社」だった。そこで岩谷は40年以上の長きにわたり、日本のインフラを支える重要プロジェクトに従事することになる。港湾整備、ダムの補修、そして大深度での特殊作業。「潜水士」という言葉から連想される素潜りや漁業とは一線を画す、コンクリートと鉄、そして水圧との戦いの日々だった。取締役として経営の一角を担うまでになった岩谷だったが、定年を機に一つの決断を下す。

    「最後は、地元に戻って恩返しがしたい」その想いが、2015年の東北海洋作業株式会社設立へと繋がった。「全国、あるいは海外の現場で活躍している南部ダイバーは多い。彼らが地元に戻ってきた時の受け皿になりたい、そして、この地域の若者を育てていきたい。それが創業の原点です」

    水深70メートルの深海で働く技術

    同社の強みであり、岩谷が長年携わってきたのが「飽和潜水」と呼ばれる特殊技術だ。
    通常の空気潜水では、水深が深くなればなるほど、体内に蓄積される窒素の影響で潜水時間が制限され浮上時の減圧症のリスクも高まる。水深40メートルを超えると、空気潜水での作業は著しく効率が落ちるという。そこで用いられるのが、ヘリウムと酸素の混合ガスを使用する飽和潜水だ。

    「人間の体を高圧環境に『飽和』させてしまうんです。一度加圧してしまえば、水深100メートルでも200メートルでも、何日でも連続して滞在できる。仕事が終わったら、数日かけてゆっくり減圧して地上に戻る。これなら深い海でも安全に、長時間作業ができます」

    岩谷氏は、この技術のプロフェッショナルとして、日本の多くの深海プロジェクトに関わってきた。しかし、そのシステムを導入するには10億円規模の設備投資が必要となる。
    「今の会社ですぐにフルセットを導入するのは難しいですが、簡易的なシステムを使って水深70メートル程度までの『バウンス潜水』など、工夫しながら対応しています」

    大手ゼネコンや電力会社からの信頼が厚いのも、こうした高度な理論と経験に裏打ちされた技術力があるからこそだ。ダムの深部など、光の届かない暗闇での作業も多い。
    「見えない場所で手探りで溶接や切断を行う。こればかりは、10年やってようやく一人前。一朝一夕には身につかない技術です」と、岩谷氏は職人の顔で語る。

    全国から集う若者たちへ、技術と誇りを継承する

    現在、建設業界全体で人手不足が叫ばれる中、種市高校には全国から若者が集まってきているという。
    「昔は地元の次男坊、三男坊がなる仕事でしたが、今は少子化で地元の子が減った。その代わり、インターネットを見て『潜水士になりたい』と、北海道から沖縄まで日本中から志願者が来てくれるようになりました」

    同社では、未経験の若者に対しても、徹底した教育を行っている。
    教育をへて自分自身が経験をすることによって、潜水士としての度胸と安全管理を身体で覚えていくのである。

    「昔は『潜水は危険だ、命がけだ』と言われましたが、今は違います。安全管理が全て。無茶な潜り方はさせませんし、事故を起こさないための理論もしっかり教えます。親御さんも安心して送り出せる業界にしなければならない」

    岩谷氏の言葉には、自身が現場で経験してきた厳しさと、それを乗り越えてきた自負が滲む。「ロボットやドローンの技術も進んでいますが、最後はやっぱり人の手なんです。水中の泥をかき分け、ボルトを一本締める。その感覚は人間にしかわからない。だからこそ、この技術を絶やしてはいけない」

    深海のフロンティアで、日本のインフラを支え続ける南部ダイバーの誇り。岩谷が蒔いた種は、全国から集った若き潜水士たちによって、確実に次の時代へと芽吹き始めている。

  • OLED青森株式会社_福留 学

    「有機の光」で青森から世界を照らす

    青森県下北半島、六ヶ所村。豊かな自然とエネルギー関連施設が共存するこの地に、世界最先端のあかりを操る企業がOLED青森株式会社だ。同社が手がけるのは「OLED(有機EL)」と呼ばれる次世代の光源。技術者としての誇りと経営者としての覚悟を併せ持つ福留と創業期から同社を支える社員にその革新の軌跡と未来への展望を語ってもらった。

    「点」ではなく「面」で包み込む。人肌のようなやさしさを持つ光

    「そもそも、LEDOLEDの違いをご存知ですか?」福留は手元のパネルを愛おしそうに撫でながら問いかけた。
    LEDは『点』で光ります。対してOLEDは『面』で光る。そして何より、OLEDの『O』はOrganic(有機)を意味します。
    福留が強調するのは、その光の「質」だ。従来のLED照明は輝度が高く効率的だが、直進性が強いために個人差はあるものの人によっては光害(突き刺さるような眩しさなど)を感じさせることがある。一方でOLEDの光はやさしく、影を作りづらい。

    「我々が目指しているのは、ただ明るくするだけの照明ではありません。家庭であれば家族が安らげる空間、工場であれば働く人がリラックスできる休憩室。そうした『やさしさ』や『癒やし』を提供できる光を作りたいのです」

    実際に同社のパネルが設置された空間に身を置くと、光に「包まれている」という感覚を覚える。それは単なる物理的な明るさではなく、心理的な温かさをもたらす光だ。近年、ブルーライトの問題や光害が叫ばれる中、同社の「目にやさしい光」は健康経営やQOL(生活の質)の向上という文脈でも注目を集めている。

    災害に強く、精密加工に適した「約束の地」六ヶ所村

    なぜ、青森の六ヶ所村なのか。事業継承した有機EL製造会社が六ヶ所村だったということもあるが、六ヶ所村は地盤が強固であり、台風や地震といった自然災害の影響を受けにくいという。

    「精密機器の製造において、揺れや振動は命取りになります。その点、この地域は過去のデータを見ても非常に安定しており、安心して操業を続けられる。これはメーカーとして最大の強みです」

    さらに、北国の冷涼な気候と清浄な空気、豊富な水資源も、熱を持ちやすい製造装置の冷却や洗浄工程において大きなメリットとなる。青森という地は、単なる地方拠点ではなく、世界最高品質のパネルを生み出すための「必然の選択」だった。

    技術者から経営者へ。組織の壁を壊した「自分ごと」化の改革

    OLED青森の起源は約15年前に遡る。「着任当時は、とにかく『良いモノを作ればいい』という職人気質が強かったですね。上から言われた仕様通りに、完璧な製品を作る。それが仕事だと思っていました」と福留は振り返る。しかし、開発から製造、そして経営へと立場が変わるにつれ、その考えは大きく変化していく。

    「技術力だけでは会社は回らない。大切なのは『人』です。しかし、当時の組織には見えない壁がありました」。製造、品質保証、営業。それぞれの部署が縦割りになり、互いの業務に無関心になりがちだった。「これではいけないと思いました。社員一人ひとりが、会社の課題を『自分ごと』として捉え、自ら考え動く組織にしなければならない」

    そこで福留が導入したのが、ある会社に倣った徹底的な改善活動と人材育成だ。外部から講師を招き、座学だけでなく実践的な問題解決のプロセスを叩き込んだ。さらに、部署間のローテーションを大胆に行い、互いの苦労や立場を理解させる仕組みを作った。
    「最初は戸惑いもありました。今まで『言われた通りにやる』ことが正解だった社員たちに『自分で考えて改善しろ』と言うわけですから」

    しかし、粘り強い対話と教育は徐々に実を結び始め「最近では、若手社員が自発的に改善チームを作り、部門を超えて課題解決に取り組む姿が見られるようになりました。彼らの成長こそが、今の私の一番の喜びです」

    かつての「指示待ち」の工場は、今や「自走する」イノベーション集団へと変貌を遂げつつある。

    青森を元気にしたい。光が繋ぐ地域と世界の未来

    地方企業の多くが人材不足や過疎化に悩む中、OLED青森は「ここで働きたい」と思える魅力的な企業作りを推進している。
    「工場だからといって、暗くて閉鎖的な場所にはしたくない。世界最先端の技術があり、社員が誇りを持って働ける。そして、そこから生まれた『光』が世界中の家庭やオフィスを照らす。そんな未来を描いています」

    同社のOLEDパネルは、その高い品質とデザイン性が評価され、すでに美術館や高級ホテルなど、特別な空間演出が求められる場所で採用が進んでいる。
    「有機ELの光は、まだ進化の途中です。もっと薄く、もっと自由に、そしてもっと人間に寄り添う光になれるはずです」

    福留の視線は、六ヶ所村の先にある世界を見据えている。「Aomori from the World」。世界が青森に注目し、青森から世界へ新しい価値を発信する。その架け橋となるのが、OLED青森の「やさしい光」なのだ。

  • 株式会社ヨコサワ_横澤 賢司

    農地から工場へ、溶接機一台からの起死回生

    青森県の製造業において、一際異彩を放つ企業がある。板金加工を主軸に、図面の受け取りから完成までを一貫して手がける株式会社ヨコサワだ。創業から36年、営業部隊を持たずとも、その技術と信頼だけで仕事を途切れさせてこなかった同社。その強固な地盤を築き上げたのは、かつて農家として土に触れていた一人の男の覚悟だった

    「一番最初は私が農家なものですから農産をしてたんですけども、やはりこれだと家族を養えないなって思ったことから始まったのが現実ですね」 代表取締役の横澤賢司は静かにそう振り返る。ゼロからのスタート、そして事業承継への苦悩、グローバル化への舵取り。激動の時代を生き抜くリーダーの哲学に迫った。

    家族を守るための転身 溶接機一台からの出発

    横澤のキャリアの原点は、意外なことに「農業」にある。実家は農家であり、中学卒業と同時に家業に従事していた。しかし、季節や天候に左右される農業だけで家族を養っていくことへの不安が、若き日の横澤を突き動かす。

    「働けば働くほど稼げる仕事」を求め、目を付けたのが板金加工の世界だった 地元の板金屋で1年ほどの修行を経た後、独立を決意。しかし、そのスタートは決して恵まれたものではなかった。「設備も何もない状態、溶接機1台からのスタートだった」と横澤は語る。

    資金もなければ、コネもない。まさに裸一貫、自身の腕一つを頼りに、未知の世界へと飛び込んだのだ 

    「二足のわらじは履くな」 恩人が突きつけた決断

    創業当初、横澤は農業と板金業の「兼業」を続けていた。農村社会特有の付き合いや農作業の繁忙期には、どうしても板金の仕事に穴を開けてしまうことがあったという。そんなある日、取引先の役員から呼び出され、人生を変える言葉を投げかけられる。

    「二足のわらじを履くのはやめるんだ。どっちか一つ選べ。それじゃなきゃ仕事はやらないよ」 厳しい言葉だった。しかし、それは横澤の才能と可能性を信じていたからこその、愛のある叱咤でもあった。「どっちか決断するしかない」。家族を養うため、そしてプロフェッショナルとして生きるために横澤氏は先祖代々の農業を捨て「板金業一本」に絞ることを決断する。

    「親父はがっかりしたと思う」と当時の心境を吐露するが、その退路を断った覚悟こそが、今日の株式会社ヨコサワの礎となったのである

    営業部隊ゼロ。「お客様第一」が生んだ信頼の連鎖

    同社の最大の特徴は、創業以来「営業部隊」を持たずに成長を続けてきた点にある。
    「ひたすら自分に課せられた良い物を作らなければいけないんだ、というところからスタートしたので、営業に歩く時間なんてなかった」と横澤は笑う。営業をしない代わりに、同社が徹底してこだわったのが「品質とスピード」横澤はその理念を独特の言葉で表現する。

    「品質はもとに、スピードを宇宙(第一)です」 品質が良いのは当たり前。その上で、顧客が求める納期よりも早く納めるスピード感こそが、最大の付加価値になると考えたのだ。その背景には、創業間もない頃の苦い経験がある。トラブルで顧客に迷惑をかけ、厳しく叱責されたことがあった。「お宅を頼りにしてるんだからしっかりしてくれ」その言葉は、単なるクレームではなく、期待の裏返しだった。「お客様をがっかりさせない」その強い思いが、同社のDNAとして深く刻まれている 。結果として仕事が仕事を呼ぶ好循環が生まれた。

    「お客様の繋がりで横の繋がりでお客さんがお客さんを連れてきてくれる」誠実な仕事ぶりが最高の営業マンとなり36年間、同社の工場の明かりが消えることはなかった 数々の困難を乗り越えてきた横澤だが、その表情に悲壮感はない。「だんだん仕事をやるに従ってこの仕事が好きだなという思いでやってますので一つの趣味をやってるような感じですね」 

    毎日が大変であることは間違いない。しかし、次々と舞い込む仕事に対し自らの技術で応えていくプロセスそのものを彼は心から楽しんでいる。「労の楽しみ」を知る経営者の背中が社員たちを、そして顧客たちを惹きつけてやまない 

    事業承継とグローバル化 次なる30年への布石

    創業36年を迎え、横澤は今、次なるフェーズを見据えている。それは息子への事業承継と組織としての地盤固めだ。

    「中身を充実させていかないと息子には渡せない。私は好きでやってきたからいいんだけど息子は『やれ』と言われてやってるようなものだから、きちっとした形で渡さないと私より大変かなという思いがある」 

    カリスマ創業者ゆえの悩みでもある。自身の感覚と馬力で牽引してきた組織を誰が回しても機能する「システム」へと昇華させること。そして、慢性的な人材不足という課題に対し同社は大胆な手を打った。それは、海外人材の積極登用だ。現在、社内には3カ国の外国人スタッフが在籍しており、まさに「多国籍軍」の様相を呈している

    「将来的には外国人の重役を育てたい」 単なる労働力不足の解消ではなく国籍を問わず優秀な人材を登用し、幹部として育成する。人口減少が進む地方企業において、このグローバルな視点こそが生き残りの鍵になると横澤は確信している。

    さらに2026年度からは創業以来初めてとなる「営業マンの育成」にも着手する予定だ 。待ちの姿勢から「攻めの姿勢へ」伝統を守りながらも変革を恐れない姿勢がそこにはある。

    リーダーたちへ贈る言葉 「信頼こそが全て」

    農家から転身し、裸一貫から企業を築き上げた横澤。波乱万丈な人生を歩んできた彼が、次世代のリーダーたちに伝えたいことは極めてシンプルかつ本質的だ。

    「信頼されることが一番かなとは思ってます。信頼されないと仕事も来ない」
    テクニックや戦略の前に、人として企業として信頼されること。約束を守り期待以上の成果で応えること。その積み重ねだけが、未来を切り拓く力になる。
    「運が良かった。周りの人に恵まれた」と謙遜する横澤だが、その「運」を引き寄せたのもまた、彼が積み上げてきた「信頼」に他ならない

    青森の地で、鉄を加工し続けて36年。その火花は次世代への希望を照らすように、今日も強く輝いている。

  • 株式会社アペック_髙橋知道

    伝統ある配電工事業界で「守破離」の改革に挑む

    人々の生活に欠かせない電気。その安定供給を最前線で支える配電工事会社が、青森県にある。東北電力ネットワーク株式会社の指定工事会社として、長年にわたり地域のインフラを守り続けてきた株式会社アペックだ。

    安全最優先」が絶対条件とされる厳格な業界において、同社を率いる代表取締役の髙橋知道は異色の経営哲学を掲げる。「ルールの中で、より自由に、より面白い仕事を」その言葉の裏には、従業員の幸せを第一に考え、既成概念を打破しようとする強固な意志があった。商社マンからの転身、そして父から受け継いだバトン。伝統を守りつつも「守破離」の「破」へと突き進む髙橋の組織改革の軌跡と次世代への想いとは。

    「現場がいなければ何も生まれない」商社時代に培った原点

    髙橋のキャリアは、意外にも建設業界ではなく、鉄鋼商社である阪和興業株式会社から始まった。そこで叩き込まれたのは、徹底した「現場主義」と、関西特有のバイタリティーだった。

    「配属初日に上司から言われた言葉が今でも忘れられません。『お前がいなくても世界は回る。でも、現場がいなければ何も生まれない』と。商社という華やかな世界で、自分が仕事を回していける気になっていた鼻をへし折られました」

    この強烈な原体験が、現在の髙橋の経営哲学の根幹を成している。2010年、父が経営するアペックに入社を決めた際も、その「現場への敬意」は変わらなかった。当初は独立志向を持っていたが、高齢となった両親のこれからを思い、そして父が築いてきた歩みを絶やすまいと、青森へ戻る決意を固めた。

    先代である父からは「やると言うなら構わないが、途中で投げ出すことは絶対に許さない」と釘を刺されたという。その言葉が、経営者としての退路を断つ覚悟に火をつけた。

    業界の常識を覆す「働き方改革」と意識の変革

    社長就任後、髙橋が着手したのは建設業界に根付く古い体質の刷新だった。
    「働く従業員たちがアペックで働けることを誇れるように。そして、みんなに自慢し、憧れられるように、そのために自分が出来ることをやろう」その決意のもとに年間休日の増加、フレックスタイムの導入、そして大胆な賃上げを実行した。「昨年の賞与は6ヶ月分を出しました。社員からは『こんなに出して大丈夫か』と心配されるほどでしたが(笑)利益はしっかりと還元する。それが私のやり方です」

    しかし、単に待遇を良くするだけではない。髙橋は全従業員約75名と半年に一度、11の個人面談を行っている。そこで徹底しているのは目標管理と「自分で考える」ことの重要性だ。かつては「言われた通りの工程をこなすだけ」だった現場の空気が、今では劇的に変化している。

    「もっと効率的にできることはないか、他に仕事はないかと、現場から自発的な声が上がるようになりました。その結果、直営部隊の売上はこの56年で約3倍にまで成長しました。待遇改善と生産性向上がうまくリンクした結果だと自負しています。

    トップダウンで指示を出すのではなく、現場一人ひとりが経営的な視点持ち、自走する組織へ。髙橋の改革は、確実に実を結びつつある。

    「守破離」の「破」へ 既存事業の枠を超えた多角化戦略

    現在、アペックは大きな転換期を迎えていると髙橋は語る。武道や茶道の修行の段階を示す「守破離(しゅはり)」という言葉があるが、同社は今まさに、師の教えを守る「守」から、その型を破る「破」の段階にあるという。

    「今の売上の99%は配電工事によるものですが、経営リスクを考えると一本足打法では心許ない。配電工事という強固な基盤(守)をベースにしながらも、そこから派生する事業、あるいは全く異なる分野への進出(破)を模索しています」

    その一環として、昨年には土木会社のM&Aを実施。建設業の枠に囚われず、収益の柱を3つ、4つと増やしていく構想だ。これは単なる利益追求ではなく、「配電事業が落ち込んだ時でも従業員の生活と雇用を守り抜くため」のリスクヘッジでもある。
    「私は55歳で引退すると公言しています。あと13年。それまでに古い制度や組織を一度『破壊』し、新しい形に作り直して次の世代にバトンを渡したい。破壊は痛みを伴いますが次のステップへ進むためには避けて通れない道です」

    自ら期限を設けることで、改革へのスピード感を加速させる。その潔さと先見性もまた、髙橋のリーダーシップの現れだ。

    人生は5つのボールのジャグリング

    髙橋は自身の座右の銘としてコカ・コーラ元CEOブライアン・ダイソンの言葉を挙げた。
    「人生は『仕事・家族・健康・友達・精神』という5つのボールをジャグリングしているようなもの。仕事のボールはゴムで出来ていて、落としても跳ね返ってくる。でも、あとの4つはガラスで出来ていて落とすと砕けてしまう」

    仕事はもちろん重要だが、それ以外の要素をおろそかにしてはならない。従業員に対してもキャリアだけでなく人生プランそのものに寄り添う姿勢を貫いている。雪深い青森の地で、インフラを守りながら、組織と人の心のあり方を変革し続ける高橋。その視線は、安定した現在ではなく、変化し続ける未来と、そこで働く人々の笑顔に向けられている。株式会社アペックの挑戦は、まだ始まったばかりだ。

  • ATOM Works株式会社_ 岡山 康広

    エネルギー小国・日本の現実を支える誇り

    「今の豊かな日本があるのは、世界に誇る製造業や交通インフラのおかげです。しかし、それらを動かす『電気』が止まれば、工場も電車も、私たちの社会活動も一瞬にして停止してしまう。資源を持たない島国・日本において、エネルギーの安定供給は、まさに国家の生命線なのです」

    エネルギー資源のほぼすべてを海外に依存する日本にとって、外部環境に左右されずに電力を供給し続けることは至上命題だ。再生可能エネルギーの普及が進む現代においても、安定的なベースロード電源としての原子力の重要性は変わらない。そして、その原子力を長期的に活用するために不可欠なのが、使用済み燃料を再処理してリサイクルする「原子燃料サイクル」である。
    ATOM Worksは、この国家プロジェクトの中枢である日本原燃株式会社の再処理工場において、設備の工事、試験、メンテナンスを担う。さらに、高レベル放射性廃棄物を保管するためのステンレス容器の製造も手掛けるなど、その技術力は多岐にわたる。

    「私たちが表舞台で脚光を浴びることはほとんどありません。しかし、私たちが現場で汗を流さなければ、日本の明かりは消えてしまうかもしれない。水や空気と同じように、電気というライフラインを守り抜く。その誇りが、社員一人ひとりの胸に深く刻まれています」

    逆風の2011年、覚悟の船出

    ATOM Worksが設立されたのは2011年。東日本大震災が発生し、原子力業界にとってかつてない逆風が吹き荒れた年である。世界中で「脱原発」の機運が高まり、先行きの見えない不安が業界を覆っていた。通常の経営判断であれば、事業の縮小や撤退を選ぶ局面だ。しかし、ATOM Worksは違った。

    企業グループ創業者の父は、微塵もブレませんでした。『エネルギーを守る仕事は、日本にとって絶対になくならない。どんな時代でも必要とされる』と。その父の強烈な信念に背中を押され、私たちは逆風の中、アクセルを全開にして船出したのです」

    父と二人三脚で経営の舵を取ることになった岡山だが、意外なことに、当初から高い志を持っていたわけではないという。「正直に言えば、楽をして生きたかったんです」と、彼は当時の胸の内を苦笑交じりに明かす。

    就職氷河期の中、厳しい就職活動を避け、逃げるように実家に戻った。「お前は俺と一緒に仕事をするんだ」という父の言葉に乗っかっただけの帰郷だった。
    しかし、経営者として社員とその家族の人生を背負う重圧、そしてエネルギー事業という公器を扱う責任感が、岡山を劇的に変えた。

    「経営とは、自分のためではなく、社員のため、社会のためにある。それが腹の底から理解できたとき、私の本当の経営者としての人生が始まったのだと思います」

    「中学校の野球部」からの挑戦

    ATOM Worksには、全国からエリートが集まるわけではない。地元の高校や専門学校を卒業した若者たちが主役だ。岡山は自社を「中学校の野球部」とユニークに例える。

    「大手メーカーさんがメジャーリーガーだとしたら、私たちは技術も組織力もまだまだ中学生レベルかもしれません。でも、だからといって卑下する必要はない。目指すのは甲子園、そしてプロ野球レベルです」

    彼らが定義する「成長」はシンプルだ。「今はできないことが、明日できるようになること」完成されたエリート集団ではないからこそ、伸び代は無限にある。ただ言われた作業をこなすだけの受動的な仕事ではなく、「ATOM Worksならもっと難しい仕事も任せられる」と言われる存在へ。そのために岡山が徹底しているのが「失敗を責めない」文化だ。

    「成功の反対は失敗ではありません。『何もしないこと』です。挑戦した結果の失敗は成長のための貴重なデータ。失敗を恐れて萎縮するような組織には絶対にしたくありません」この心理的安全性が社員の自律的な行動を促し、現場の技術力を着実に押し上げている。

    技術よりも「人間性」。いい奴が集まる会社へ

    採用において、岡山が何よりも重視するのが「人間性」だ。どれほど高い技術を持っていても、利己的でチームの和を乱す人間は採用しない。「多少不器用でもいい。仕事が遅くてもいい。困っている仲間がいれば自然と手を差し伸べられる、そんな『いい奴』に来てほしいんです」

    コンプライアンスやハラスメントへの意識が高まる現代において、誠実さや優しさといった「徳」は、企業にとって最大のリスクヘッジであり、同時に最強の武器となる。技術は入社後に教育できるが、根底にある人間性は一朝一夕には変わらないからだ。

    「私たちの仕事はチームプレーです。お互いを助け合い『あいつのためなら』と思える関係性がなければいい仕事はできません。だからこそ、うちは徹底して人間性重視。数字や効率の前にまず『人』を大切にする会社でありたいのです」

    地域No.1の「100年企業」を目指して

    岡山が描く未来図は明確だ。「地域ナンバーワン」、そして「100年続く企業」である。
    売上の規模だけを追うのではない。この地域で最も信頼され、最も必要とされる企業になること。そして、自身が引退した後も、時代に合わせて形を変えながら、この六ヶ所村に在り続けること。

    「会社が存続することで地域の雇用が守られ、若者が地元で夢を持って働ける。それがひいては日本のエネルギーを守ることにつながります」

    かつて「楽をしたい」と故郷に帰ってきた青年は今、多くの社員の人生と日本のインフラを支える頼もしい経営者となった。「大した人間じゃないですよ」と謙遜する笑顔の奥には逃げずに積み重ねてきた経験と地域への深い愛情が滲んでいる。

    北の大地、青森・六ヶ所村から日本の未来を静かに、しかし力強く照らし続けるATOM Works。「人間性」という灯火を掲げ逆風を力に変えて進む彼らの挑戦はこれからも続いていく。

  • 株式会社つたや会館_小川 雅幸

    地域に愛される「人と人が集う場所」を次代へ

    青森県三沢市。米軍基地や航空自衛隊、近隣のエネルギー産業など、独自の国際色と活気に満ちたこの街で、半世紀以上にわたり「街のランドマーク」として親しまれてきた場所がある。ホテルグランヒルつたや(株式会社つたや会館)だ。昭和、平成、令和と時代が移り変わる中、結婚式、宴会、そして宿泊と、地域の人々の人生の節目に寄り添い続けてきた同社は、20259月、新たな体制で再スタートを切った。

    コロナ禍による苦境、先代社長の急逝という予期せぬ困難を乗り越え、新会社の代表取締役に就任したのは、かつてアルバイトとして同社の門を叩いた小川雅幸氏。「ナンバー2のナンバー1を目指してきた」と語る彼が、なぜトップとして舵を取ることになったのか。そして、彼が描く「つたや」の未来とは。その胸中に迫る。

    アルバイトからの出発、そして継承へ

    小川と「つたや」の出会いは約20年前に遡る。
    高校時代から漠然とサービス業への憧れを抱いていた彼は、Uターン就職後、結婚情報誌『ゼクシィ』を見て求人に応募。当時の支配人が、館内を丁寧に案内してくれた姿に心を打たれ、アルバイトとして入社を決めた。

    「当時の面接官だった支配人が、即座に制服を買いに連れて行ってくれるスピード感と情熱は今でも忘れられません。そこからフロント、司会者、営業と経験を重ね、気づけば20年近く、この会社という『家』で過ごしてきました」

    現場の最前線でキャリアを積み上げてきた小川。彼には常に心がけていた一つの哲学があった。それは「ナンバー2のナンバー1になる」こと。トップを支える右腕として、組織の潤滑油となり、誰よりも頼られる存在を目指してきたのだ。しかし、転機は突然訪れる。コロナ禍による打撃に加え、先代社長の高齢化により事業承継が急務となったのだ。地域から「つたや」の灯を消してはならないと、六ヶ所村の企業がスポンサーとして名乗りを上げ、新会社が設立されることになった。その矢先、新会社発足のわずか9日前に先代社長が他界。「あとは頼む」という言葉を遺されたかのように、小川は新会社の代表というバトンを受け取ることになった。

    「オーナーからは『現場を知る人間がやるべきだ!お前に掛ける!』と背中を押されました。ずっとナンバー2を目指してきた自分がトップに立つ。最初は戸惑いもありましたが、オーナーという経営者を支えるという意味では、形を変えた『ナンバー2』の極みを目指せるのではないか。そう腹を括りました」

    「集う場所」を守るための組織づくり

    新代表として就任した小川がまず着手したのは、「スタッフとの面談」である。「良いサービスはお客様への想いから生まれますが、それを生み出すのはスタッフです。」
    一緒に現場で共に働いてきた仲間がこれまでの会社の体質をどう感じており、今後の会社に求めていることは何か?1対1で向き合った。

    そして同じ方向へ向かう為に新たな社訓を策定した。『”帰り際”の笑顔』これは先代が、「館内にお客様がお越しになる時よりも、お帰りになられる時の表情を見るように」と常々口にしていた。提供したサービスやご飲食にご満足いただければ自然と表情に出るはずと考えたからである。また組織改編も実施した。これまで「営業」「ホールサービス」「フロント」は別々の部署だったが、「サービス部」と統合し事務所も一緒にした。
    部署の垣根を超えてコミュニケーションを取るのが目的だ。そこから「この料理がお客様に好評だった」「この時間帯ヘルプ出来る?」といった会話が生まれ、チームの結束力が強まる。さらに、不規則になりがちな勤務体系の中で、スタッフがリフレッシュできるよう、「まかない」や「休憩スペース」の充実も今後計画したいと語る。

    「お客様は、特別扱いされたい心理と、平等に扱われたい心理の両方を持っています。その機微を感じ取るには、マニュアルだけでなく、スタッフ自身の心の余裕と『気づく力』が不可欠です。私たちが目指すのは、ただの施設ではなく、スタッフの人間力を通して『また帰ってきたい』と思っていただける場所なのです」

    また、既成概念にとらわれない人材登用も進めている。結婚・出産を経た女性スタッフがウェディングプランナーとして第一線で活躍できる体制を整えた。「経験者がライフステージの変化でキャリアを諦めるのはもったいない」という小川の想いが、顧客にとっても安心感のあるサポート体制へと繋がっている。

    単なる「会場」から「プロデューサー」へ

    新生・つたや会館が描く未来図は、単なる「場所貸し」に留まらない。
    三沢市を含む上十三(上北・十和田・三沢)エリアにおける、イベントや宴会の「トータルコーディネーター」への進化だ。

    「これまでは、お客様が決めた内容を私たちが会場として遂行する形が主でした。しかし、これからは私たちが幹事様の負担を減らすプロデューサーになりたい。例えば、企業の忘年会なら、会場提供だけでなく、企画、進行、予算配分まで私たちが提案し、運営まで請け負う。そうすれば、幹事様も当日ゲストと一緒に楽しむことができます」

    地域における宴会需要やイベント運営を一手に引き受け、さらに人手不足に悩む近隣市町村へは、仕出しやケータリングで「つたやの味」を届ける。
    「三沢市外からも多くの注文をいただいています。地域に守られてきた感謝を忘れず、今度は私たちが地域の食と集いのインフラとして、広域に貢献していきたい」

    若き経営者として、新たな航海に出た小川。最後に、次世代を担う若者たちへメッセージを求めた。
    「仕事は、楽しいものです。もちろん大変なこともありますが、自分の提案でお客様が笑顔になり、仲間と喜びを分かち合える瞬間は何にも代えがたい。若い皆さんには、その有り余るエネルギーを仕事にぶつけてみてほしい。私たちも変化を恐れず、新しい技術や感性を取り入れていきます。共にこの地域を盛り上げていきましょう」

    「つたや」という暖簾は、小川雅幸という新たな旗手を得て、伝統を守りながらも革新の風を吹き込み、これからも多くの人々の「集う場所 準公共施設」として輝き続けるだろう。

  • ねぶた師_北村 麻子

    青森が誇る光の彫刻師

    ココ・シャネルは「流れに逆らう者こそが川の本流をつくる」と語った。彼女の生き様は、固定観念に縛られず、自らの道を切り拓く女性の姿そのものだった。その精神を受け継ぐかのように、青森の地で一人の女性が運命を変えようとしていた。北村麻子、日本初の女性ねぶた師。男の世界とされてきたこの伝統芸術に挑み、ねぶたの灯りをさらに鮮烈に輝かせた女性だ。

    ねぶたが灯る夏の夜、浮かび上がる巨大な灯籠の背後には、血の通った人間の情熱と時間とが凝縮されている。紙と竹の骨組みが作り上げるその独特の立体造形は、まるで巨大な生物のように脈打ち、見る者の心を鷲掴みにする。青森が世界に誇るこの伝統芸能を支えるねぶた師という存在は、彼らの作品が夜空を彩る刹那にのみ注目されがちだが、実際には長い時間と想像力、そして繰り返しの試行錯誤を要する孤独な戦いに身を置いている。北村麻子は、数少ない女性ねぶた師としてその道を極めてきたアーティストだと言えよう。

    彼女が創り出す作品には、青森の土の匂いと生命力が溶け込み、同時に繊細な女性の視点が織り込まれる。挑戦する心を常に絶やさず、素材や色彩の扱いに独自の美意識を滲ませながら、伝統と革新をしなやかに結び合わせる。その姿勢は、ねぶた師という肩書きにとどまらず、芸術家としての無限の可能性を感じさせる。

     

    衝撃を受けた20代

    ねぶたとは、青森の魂そのものである。夜空を焦がすほどの熱狂、火花のように舞う囃子の音、そして勇壮に跳ねる観衆。それらを統べるのが、巨大なねぶたの姿だ。戦国武将や伝説の神々、神話の英雄たちをモチーフにしたこの灯篭は、まさに生きているかのように街を駆け抜ける。ねぶた師とは、その圧倒的な存在感を創り上げる職人のことである。しかし、伝統の世界に女性の居場所はないとされてきた。

    北村麻子は、そんな「暗黙の掟」に抗うこととなった。彼女が幼少のころから見つめ続けたのは、ねぶたの名匠である父・北村隆の背中だった。しかし、それはあくまで「遠いもの」として映っていた。女性がねぶたをつくるなど、誰も考えもしなかった。彼女自身ですら。

    高校を卒業した彼女は、すぐにねぶたの道へ進んだわけではなかった。最初は販売業や一般企業のOLとして働き、社会の現実と向き合う日々を送る。だが、その間にも「自分はこのままでいいのか」という漠然とした疑問が彼女を苦しめ続けた。そして20代半ば、ある年のねぶた祭りで父の作品を目にした瞬間、すべてが変わる。「私も、これをつくりたい。」電撃のような衝動が彼女の人生を決定づけた。

     

    「長い」道のり

    ねぶたの世界は、力の世界だ。巨大な骨組みを組み、紙を貼り、絵を描き、そして魂を吹き込む。そのすべてが、腕力と体力、技術を求めるものだった。最初から周囲の反応は冷ややかだった。「女にできるわけがない」「重いものも持てないだろう」「すぐに辞めるだろう」そんな言葉が彼女の耳に突き刺さる。しかし、彼女は一つひとつの疑念を実力で覆していく。

    膨大な量の下絵制作、骨組みの組み立て、紙貼り、彩色という地道かつ膨大な作業が続く。しかも、ねぶた作りのスケジュールはほとんどが“締め切りとの闘い”だ。祭り当日に間に合わなければ作品が日の目を見ることはない。「時間が足りなければ眠る時間を削るしかない。だけど、そこに人間の情熱や創造性がすべて詰まっている」と、北村は当時を振り返りながら語る。

    そして初めて手掛けた大型ねぶた「琢鹿の戦い」で優秀制作者賞を受賞。だが、それですら「女性だから贔屓されたのではないか」と陰口を叩かれることとなる。「本当は父が作っているんじゃないか」とすら言われた。だが、彼女は動じなかった。作品をつくり続けることで、まさに実力で批判を黙らせていった。

    それから10年以上が経ち、今や彼女はねぶた界の第一線で戦い続けている。彼女のねぶたは力強さと繊細さを併せ持ち、観る者の心を掴む。「紅葉狩」「神武東征」「雷公と電母」。彼女の手がけたねぶたは数々の賞を受賞し、その感性と技術を証明している。

     

    新しい伝統をつくりたい

    現在、北村麻子は青森市内を拠点としながら、複数のプロジェクトを同時進行で進めている。例えば近年では企業や地方自治体からのオファーに応え、PRやイベントで活用できるミニねぶたの制作も手がけている。本来、大型のねぶたは青森の夏祭りという季節的な枠組みにとどまりがちだが、北村の試みはその枠を超えて、ねぶたを通年のコンテンツとして展開する可能性を示唆している。例えばショッピングモールや観光キャンペーンの一環でミニねぶたを展示したりと、ねぶたの新たな魅力を発信している。

    そして彼女の挑戦はねぶた制作だけにとどまらない。ねぶた師としての道を切り拓いただけでなく、SNSを活用し、新たな人材をこの世界へと引き寄せ続けている。インスタグラムでの発信を通じて「ねぶたを作りたい」と全国から人々が集まり、人材不足に悩んでいた現場を活性化させた。「以前は鹿児島の奄美大島から応募が来たこともありましたね…さすがにどうしようかと思いました(笑)」と、北村は朗らかに語る。

     

    「NEBUTA from AOMORI」へ

    そして彼女は、ねぶたを世界へと広げようとしている。父がかつてイギリスの大英博物館で制作を行ったように、彼女もまた世界にねぶたを持ち込み、新たな歴史を刻もうとしている。ねぶたは青森だけのものではない。世界の人々に、その熱狂と美しさを伝えることができるものなのだ。「女性だからこそ見える角度がある。伝統って、本質を守りながらも、時代に合わせて変化していくからこそ生き残るんじゃないでしょうか」。北村の言葉には、彼女が積み重ねてきた知識と経験、そして柔軟な挑戦心が滲む。

    そして北村は若者たちにこう語る。「挑戦することを恐れないでほしい。実は私は、20代半ばまで自分が本当にやりたいことが何かまったく分からなかったんです。でも、ねぶたと出会い、自分の中に眠っていた情熱を見つけた。だから少しでも興味を持ったことがあれば、その感性にしたがって、恐れず飛び込んでみてほしい。自分の道を信じることが、未来を切り開く鍵になるんです。」

    これまで築いてきた技術をさらに磨き上げる一方で、青森という土地の力強い文化を世界に向けて発信する…その二つを同時に叶えようとする北村麻子の姿勢は、ねぶた師という枠を超えた“アーティスト”そのものである。彼女が導く未来のねぶたは、祭りの夜空だけでなく、世界中の多彩な舞台をも眩いばかりに照らし出すに違いない。

  • オステリアエノテカ ダ・サスィーノ_笹森 通彰

    青森を愛する食の探求者

    青森県弘前市の静かな街並みに佇むレストラン「オステリア エノテカ ダ サスィーノ」。そのオーナーシェフである笹森通彰氏は、料理人としての使命感と地元青森への深い愛情を胸に、この地で新たな食文化を創造し続けている。その生き様は、地域に根ざしつつも世界へ目を向けた姿勢を体現している。まるで日本が誇る俳人・松尾芭蕉が「奥の細道」を旅したように、自らの足で青森の食材と向き合い、その魅力を探求しているようだ。

     

    イタリアで培った料理の哲学

    笹森氏の旅は、高校卒業後から始まる。仙台のイタリア料理店でアルバイトをしていた彼は、そのまかない料理を通じて料理の面白さに目覚めたという。その後、都内の有名店での修行を経て、2001年にイタリアに渡る。ミシュラン二つ星レストラン「ドラーダ」をはじめとした名店で約2年半修行を積む中で、現地のシェフから“故郷の食材を活かすことが料理人の真髄である”という哲学を学び、それが彼の料理人生の指針となった。

    2003年、彼は青森に戻り、「オステリア エノテカ ダ サスィーノ」をオープンした。ここで提供される料理は、青森県産の新鮮な魚介類や野菜を主役に据えたイタリアン。単なる郷土食材の使用にとどまらず、イタリアの伝統的な調理法と組み合わせることで、ここでしか味わえない独自のメニューを生み出している。その一つが、地元の漁師から紹介された市場に出回らない珍しい魚を使ったパスタだ。この料理は、笹森氏の創意工夫と挑戦心の象徴として、地元のみならず遠方から訪れる客にも愛されている。「ちなみにサスィーノは、イタリアで働いてた時のササモリのニックネームです」と笹森氏は朗らかに語った。

     

    食材への敬意を最大限に

    2014年には「JAPAN CHEESE AWARD」で部門別金賞・銀賞をダブル受賞し、農水省料理人顕彰制度「料理マスターズ」ブロンズクラスにも選出。2015年にはフランス国際チーズコンクールで部門別銅賞を受賞し、以降も「JAPAN CHEESE AWARD」や「ジャパンシードルアワード」「ジャパンワインチャレンジ」などで数々の賞を獲得。2019年には「料理マスターズシルバークラス」を受賞、2020年には「日本ワイナリーアワード コニサーズワイナリー」に選出されるなど、笹森氏の活動は常に進化を続けている。

    輝かしい受賞歴を持つ笹森氏の料理哲学の根底には、食材への敬意がある。それは、食材が持つ個性を最大限に引き出すことを目的とした彼の調理への姿勢からも明らかだ。たとえば、冬の寒さを利用して甘みを引き出した雪中にんじんを用いたスープが大きな話題を呼んだこともある。これらの試みは、地元の生産者との深い連携なしには成り立たない。笹森氏は農家や漁師を頻繁に訪れ、食材の質や育成状況を直接確認するだけでなく、生産者の挑戦を支える役割も担っている。

    さらに、笹森氏は飲食業の枠を超えた活動にも力を入れている。自らブドウ畑を所有し、ワインの製造に取り組む姿勢は、まさに彼の探究心の表れである。その情熱は、地元弘前市をワイン産地として認定させる行政への働きかけにまで及び、地域全体の活性化にも貢献している。また、若手生産者や地元の学校と協力し、持続可能な農業や漁業を推進することで、次世代を育てる活動にも注力している。

     

    青森を「食の聖地」へ

    笹森氏が語る未来像は、青森を「食の聖地」として世界に認知させることだ。そのために、海外のシェフや食の専門家を招いたイベントの開催や、地域全体でのプロジェクト推進を目指している。また、地元の若者たちに対しては、自らの経験をもとに「外の世界を知ることの重要性」を訴え、視野を広げることの価値を伝えている。彼の言葉は、青森の未来を担う次世代への熱いメッセージであり、同時に自身の経験から生まれたリアルなアドバイスでもある。イタリアの土壌や気候を最大限に活かし、国際的な評価を得たたことでイタリアのワイン文化を再興したガヤ氏のように、彼もまた青森の風土と食材の特性を活かしながら、独自の料理とワインで青森の食文化を国内外に発信し、まさに世界に挑み続けている。

    今や「オステリア エノテカ ダ サスィーノ」は地元青森を訪れる観光客だけでなく、国内外から多くの食通たちが足を運ぶ名店だ。ここで修行させてほしいと頭を下げにくる若者も尽きることがない。ここには、単なる料理を超えた物語と、地元愛に裏打ちされた情熱が詰まっているのだ。

    笹森通彰オーナーは、青森という地方都市から世界に向けて、その価値を発信する旗手として輝きを放っている。彼の物語は、地域と世界を繋ぐ可能性を秘めた一つの成功例として、これからも多くの人々に希望とインスピレーションを与え続けるだろう。