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  • ブロッサムホテル弘前_福士 圭介

    セザール・リッツの哲学を体現する男

    セザール・リッツは「お客様を王族のように迎えよ、そうすれば彼らは王族のように振る舞うだろう」と言った。彼はホテルという空間を単なる宿泊施設ではなく、夢を形にする場所へと変えた。豪華さや格式だけではなく、サービスという名の魔法をかけ、訪れる人々に記憶に残る時間を提供した。そんな彼の哲学を体現するかのように、青森県弘前市に一人の男がいる。

    「僕は単なる料理人でした。」そう語るのはブロッサムホテル弘前の総支配人である福士圭介。彼は決して宿泊業に精通した家系で育ったわけでもない。ホテルマンとして教育を受けてきたわけでもない。彼の出発点は、むしろ料理の世界にあった。東京で懐石料理を学び、和食の道を極めるはずだった男なのである。

     

    ホテルの舵を取る料理人

    東京で懐石料理を学び、和食の道を極めるべく修行を積んできた福士代表。研ぎ澄まされた包丁さばき、食材の持つ本来の味を最大限に引き出す技術。彼は料理に没頭し、職人としての道を歩むはずだった。しかし、宿命は彼を予想外の方向へと導く。実家である福士旅館が都市計画の影響を受け、一時閉業を余儀なくされる。何世代にもわたり続いた旅館の灯を、絶やしてはならない。その思いが彼の中に強く芽生えた。

    だが、ただ戻るだけでは意味がない。東京での修行を終えた彼はパレスホテルでの経験を通じて、一流のサービスとは何かを体得する。料理を超え、空間全体を演出し、訪れた客に特別な時間を提供する。そのすべてを吸収したのち、彼はついに決意する。「戻らなければならない。ただし、新しい形で。」

    2000年、ブロッサムホテル弘前として新たなスタートを切る福士旅館と福士代表。だが、彼の試練はここから始まった。宿泊業の経験ゼロ、右も左も分からないまま、彼はホテルの舵を取ることになる。経営者として、料理人として、そして現場のスタッフとして。彼は手を汚すことを厭わない。フロントに立ち、ルームサービスを運び、清掃スタッフと共に汗を流す。ホテル業界の教科書には載っていない方法で、彼はまさしく「自分のホテル」をつくり上げたと言っても過言ではない。

    ホテル経営は決して順風満帆ではなかった。特に東日本大震災の影響は甚大だったと彼は語る。観光客は激減し、売上は落ち込む。だが、福士代表は諦めなかった。むしろこの危機をチャンスと捉え、地域との連携を強めた。「シンプルですが、地域が潤えば、ホテルも潤うんです」そう話す彼の顔は確信に満ちていた。そしてコロナ禍。多くのホテルが閉鎖や人員整理を余儀なくされる中、福士代表は決断する。「誰一人解雇しない」…彼は行政と連携し、コロナ患者の受け入れ施設としてホテルを運営。結果として、従業員の雇用を守るだけでなく、地域医療の支援という新たな役割を果たすことになった。そしてコロナが落ち着いたタイミングでリニューアルを敢行。ピンチをチャンスに変える、その手腕こそが彼の真骨頂だろう。

     

    仕掛けた独自戦略

    現在、ブロッサムホテル弘前は青森・弘前における観光とビジネスの中心地として確固たる地位を築いている。全35室のホテルは、洗練されたデザインと機能性を兼ね備え、訪れる客に「第二の我が家」と思わせるような温もりを提供する。外国人観光客の増加を見越し、多言語対応のスタッフを配置。ビジネス利用客には、高速Wi-Fiやワークスペースを完備した部屋を提供。EV充電設備、レンタサイクルの導入など、細部にまでこだわる。

    特に彼がこだわったのは、ただの「宿泊施設」ではなく「オンリーワンサービス」を提供すること。大手ホテルが大量の客をさばくことに注力するならば、ブロッサムはあえてその対極をゆく。朝食はビュッフェではなく、ルームサービスでご提供。ゆっくりと起き上がり、寝ぼけ眼のまま美味しい朝食を楽しむ。化粧や身だしなみを整える必要もない。客のプライベートな時間を最大限に尊重し、その快適さを徹底的に追求する。福士代表は時代の流れを的確に読み取り、弘前で評価される自分たちの得意分野がなにかを見極めてきたのだ。

     

    「爆進型」スタイルで飛び込め

    福士代表は「市場に合わせる」のではなく、「市場を創る」ことに全力を注いできた。客層を選び、ホテルの個性を際立たせる。バイキングスタイルが好きな人には、はっきりと他のホテルを薦める。「うちはこういうスタイルです」と明言する。結果、宿泊客の満足度は驚異的な数値を叩き出し、リピーターが増え続ける。まるでセザール・リッツが築いた高級ホテルのように、ブロッサムは独自のサービスを武器に、唯一無二のホテルへと成長した。

    福士圭介は「爆進型」だと言う。思いついたことは即実行し、ダメならすぐに軌道修正する。その柔軟性と決断力こそが、彼のホテル経営を成功に導いた最大の要因だ。だがそれは単なる「猪突猛進」ではない。彼の根底には、幼い頃から育まれた「宿泊業の原点」がある。旅館業を営んでいた家に生まれ、お客様と日常を共にした経験。宿泊業は単なるビジネスではなく、人と人とのつながりそのもの。彼はそれを知っている。

    この物語は、未来を担う若い世代にも響くはずだ。彼の生き様から学べることは多い。もし今、何をすればいいのかわからないなら、まずは「動いてみること」。福士自身、未経験の宿泊業界に飛び込み、試行錯誤を繰り返しながら成功を掴んだ。失敗を恐れず、自分の信じる道を突き進むこと。それこそが、新しい何かを生み出す第一歩になる。

    そして、彼はこうも言う。「どんな人と出会うかで人生は変わる。だからこそ、興味を持ったことには躊躇せず飛び込んでみるべきだ。」と。新しい環境に身を置き、多様な価値観に触れることで、視野が広がり、自分の可能性に気づくことができる。福士圭介の物語は、挑戦と革新の連続だ。そしてその物語は、若い世代に対しても大きな示唆を与えている。何かを成し遂げたいと思うなら、まずは一歩を踏み出し、学び、行動し続けること。それが、未来を切り拓く鍵となる。

     

  • 医療法人愛和会 桜川歯科病院_石川 佳和

    青森のパスツール

    天然痘の予防法を広めた細菌学者ルイ・パスツールはかつて、「機会は準備された心に微笑む」と語った。

    この言葉の通り、青森の歯科医・石川佳和は、周到な研究と実践を積み重ね、従来の歯科治療の枠を超えた医療を追求している。彼の取り組みは、単なる口の中の健康を超えて全身の健康へと踏み込むものだ。科学的根拠を基盤としつつ、新たな視点から歯科医療を捉え、地域社会の未来に貢献し続けている。

     

    短命県が乗り越えるべき壁

    彼の人生は決して平坦な道ではなかった。小学生時代には身長が高かったため、周囲からさまざまな反応を受けることがあったが、中学時代にはバスケットボール部でセンターとして活躍し、周りの人間を実力で認めさせた。やがて小さい頃からの夢の実現に向けて医学の道に進みたいと感じ高校は進学校を目指していた。ところが、度重なる不運によって、本意ではない高校に入学する事態となった。「環境なんかに負けてたまるか、と強く思いました。意地ですよね…負けると思った時点で負けなんですよ。結果的に浪人もしましたが、受かるまで諦めなくて本当によかったと、心から思っています。大変なとき、支えてくれた両親には感謝しかありません。

    歯科大学に進学した彼が最も衝撃を受けたのは、自身の過去の歯の治療が「不適切治療」だったと知ったことだった。 小学生のころからずっと一本の歯の痛みに悩まされ続け、11年間も満足に食事を摂れなかった。治療に通い続けても痛みは取れず、ついには顎関節症を発症した。彼はその苦しみを誰にも味わわせたくないと誓い、咬み合わせと顎関節の専門医になることを決意する。大学院では、入れ歯治療を徹底的に学び、その技術を極めた。そして、全国でも珍しい「総入れ歯専門の補綴学(ほてつがく)」を研究し、青森に戻る。そして彼は青森の現実を知った。

    青森は、日本で最も短命な県として知られている。癌の死亡率はワースト1位。飲酒量、喫煙率、インスタント食品の消費量も全国トップクラスだ。その現実を知った彼は、ただ歯を治療するだけでなく、「食生活を見直し、全身の健康を守る」という視点から歯科医療を捉え直し、「歯周統合医療」を提唱している。

    「医学は、病気を治すものではなく、健康を維持するためのものだ。」彼はこの信念のもと、今も患者と向き合い続けている。

     

    「歯周統合医療」という概念とは

    桜川歯科医院は、彼の理念を具現化した場所だ。一般的な歯科治療はもちろんのこと、特に「入れ歯」と 「歯周病治療」、「顎関節症治療」に特化している。そして何より、彼が掲げるのは「歯周統合医療」という新たな概念である。歯周病は、単なる口の中の問題ではない。全身の健康に影響を及ぼし、がんをはじめ、様々な病気に罹ってしまうリスクを高める。そのため石川理事長率いる桜川歯科医院では、患者一人ひとりの生活習慣や食事、免疫機能までを総合的に診断し、根本的な健康改善を目指す。

    ここで注目すべきは、石川がインプラント治療をほとんど行わないという点だ。多くの歯科医院がインプラント治療を提供するなかで、彼は異なるアプローチを選択している。インプラントは歯科的に優れた技術である一方で、桜川歯科医院では全身の健康とのバランスを考慮し、患者ごとに最適な治療法を提案することを重視している。そのため、取り外して清潔に保ちやすい入れ歯のメリットを活かし、快適に噛める補綴治療に力を入れている。

    取り外して清潔にできることこそが、入れ歯の最大のメリットだ。石川理事長はそのメリットこそ、人が幸せを文字通り噛みしめることができる重要なポイントだと語る。桜川歯科医院では、彼自身の卓越した歯科技工技術により、患者が快適に噛める入れ歯の製作に力を入れている。

     

    歯科医療のフロンティアを目指して

    彼がどうしても伝えたいのは、歯の健康は全身の健康と直結しているという事実である。適切な食事と正しいケアが、長寿と豊かな人生につながる。医学の発展は日々続いているが、その本質を見失わず、根本から健康を支えることが最も重要なのだ。

    「悩んでいるときこそ、きちんとした食事を摂るべきなんです。」と語る石川。精神的に落ち込んだとき、人は過食や拒食に陥りがちだ。しかし、そんなときこそバランスの取れた食事を心がけるべきだと石川理事長は語る。全身の細胞のエネルギーを作るミトコンドリアの機能が低下すると、精神的なバランスも崩れ、さらに 悪循環に陥るのだ。「例えば、失恋したときに何も食べられなくなりますよね。その後カップラーメンで済ませる。その繰り返しが体に大きな影響を与えるんです。」精神の健康は、肉体の健康と密接に結びついている。適切な栄養を摂ることが、人生の困難を乗り越える力になるのだ。

    そして常日頃の心構えとして、石川は次のように説く。「人は壁にぶちあたると、その重圧に負けてついあきらめようと考えます。そこで深呼吸して「俺ならできる」「今だからできる」「負けてたまるか」を3回唱えることで自然と心が落ち着くので、不思議です。」

    今、その意志は青森から東京へと広がりつつある。2025年3月、彼の娘が東京で開業する。それは、彼の技術と理念が、より多くの人々に届くことを意味する。彼の提唱する「歯周統合医療」は、2025年ついに書籍として出版。地方に根ざした革新が、ついに全国へと羽ばたく。

    科学に国境はない。しかし、科学者には祖国がある。「健康寿命130歳プロジェクト」を掲げ、新たな挑戦に踏み出している石川佳和の祖国は青森、そして彼の戦場は歯科医療というフィールドだ。彼がこれから切り開く未来は、単なる歯の治療を超え、人々の健康と長寿を守る、新たな医学の地平である。

  • 株式会社タカシン_畠山哲充

    平川市で活躍中の広報リーダー

    19世紀、フランスにジュール・ヴェルヌという男がいた。彼は、人類が成し遂げるべき未来を想像し、その可能性を物語にした。『海底二万里』『八十日間世界一周』『地底旅行』など、彼の作品は単なるフィクションではなく、科学と冒険の融合による未来の提示だった。彼のように、常識の枠を超え、新たな可能性を切り開く人物が現代で活躍している。それが、株式会社タカシンの畠山哲充である。

    青森にある株式会社タカシンは、電子機器製造受託(EMS)事業、成型・金型・金属加工事業を行う電子精密機器の総合企業である。セキュリティ管理された9箇所の生産拠点を持ち、国際規格準拠の品質マネジメントを実施。熟練の技術スタッフによる高精度な作業と厳格な品質管理体制のもと、多様な製造プロセスを一貫して提供している。また、自社製の生産管理システムを活用し、情報の集約と分析を行いながらワークフローの最適化をも推進している。

    青森の地で生まれ育ち、バスケットボールを通じて鍛えられた精神とチームワークを武器に、タカシンというフィールドで活躍を続けている畠山。個の力を超えた、組織全体のために動くという決意を抱く彼はまさに「知恵と行動力」を体現する人物であるといえよう。

     

    愚痴は「チャンス」

    タカシンが今日の規模へと成長するまでには、幾度となく困難が立ちはだかった。2008年のリーマンショック、東日本大震災、そしてコロナ禍。どの試練も企業の存続を揺るがすほどの衝撃だった。しかしタカシンはそこで立ち止まることはなかった。リーマンショックの際には、景気に左右されにくい医療関連事業へと事業領域を拡大。震災の際には、仙台工場の復興へ向けて後方支援に尽力した。

    畠山は、会社が進める組織変革の中で、特にバックオフィス業務の合理化と情報共有の改善に尽力した。総務グループ時代には、社員情報の管理をExcelや紙からデジタル化し、システム化を主導。もちろん反発もあった。多方面の業務を細部まで理解しなければ、DX化はなし得ない。当時細かな点まで理解が及ばず、エラーが起こってしまったこともあったと語る。しかし「愚痴はチャンス」という哲学のもと、現場の課題をひたすらに洗い出し、改善を積み重ねたのである。

    そして業務の属人化を排し、情報を一元管理することで、組織全体の生産性を飛躍的に向上させた。人事システムの刷新を行い、総務部門だけでなく、各製造現場もそのシステムを活用することで、作業負担の軽減を実現した。

     

    広報戦略という新たな挑戦

    タカシンの強みは、単なる受託製造にとどまらず、最先端の技術と品質管理による「高精度なものづくり」にある。ISO9001、ISO13485、IATF16949などの国際規格を取得し、厳格な品質基準のもとで製造を行っている。さらに、環境負荷の低減を目的とした生産体制の構築や、社員の技能向上を支援する体制を整えている。

    また、部門間の情報共有をオープンにすることで、作業者の負担軽減と生産性向上を図り、長年にわたり改善活動を継続している。このような体制のもと、コストパフォーマンスの高い製品を市場に提供し続けている。

    2024年、畠山は新たな戦場へと足を踏み入れた。タカシンの広報グループの立ち上げである。これまで、品質と技術力において確固たる地位を築いてきたタカシンだが、企業の価値を社外に伝える戦略は十分に確立されていなかった。

    「企業の価値は、社会に伝えなければ意味がない」そう考えた畠山は、企業PRの土台づくりに奔走した。SNSの運用、採用パンフレットの刷新、広報ブログの開設、PR動画制作の計画…総務の経験こそあれど、広報については全くの未経験。多岐にわたる広報施策を知恵と行動力で推し進め、今もタカシンのブランド力を強化している。「将来的には広報グループとして数名の採用も見込んでいます。もちろん充実していますがさすがに手広くしているので、今ちょっと大変ですね…(笑)」と畠山はわくわくしながら語っていた。

     

    未来を見据えたタカシンの経営哲学

    タカシンには「未来委員会」という組織がある。CSRやBCP(事業継続計画)を推進し、持続可能な経営を実現するための委員会だ。畠山はこの未来委員会を通じて、人材育成や組織文化の改革に注力している。

    企業は単に利益を追求するだけでは存続できない。環境負荷の低減、地域社会への貢献、そして社員の成長を促進することで、持続可能な発展が可能となる。畠山は、この理念を深く理解し、周知活動を続けている。

    ジュール・ヴェルヌが空想した未来は、やがて現実となった。畠山哲充もまた、タカシンの未来を切り開くために、知略と行動を駆使している。

    「ひとりの力は小さい。だが、ひとりの力が集まれば、できることは無限に広がる。」彼の歩みは、まさにその言葉を体現していると言っても過言ではない。企業の発展のため、地域社会のため、そして働く人々のために。畠山哲充は、これからもタカシンという翼を広げ、さらなる高みへと飛び続ける。

  • 司法書士法人わかば法務事務所_久保 隆明

    八戸と共に生きる司法書士

    北の海風が吹き抜ける青森県八戸市。この街は、太平洋に面しながらも温暖な親潮と冷たい寒流が交わる独特の気候を持ち、豊かな漁業資源と共に発展してきた。かつては城下町として栄え、現在は青森県南部の経済・文化の中心地でもある。

    そんな八戸の中心街に事務所を構えるのが、司法書士法人わかば法務事務所だ。そこに司法書士として相続や登記、裁判業務を手がける男がいる。久保隆明。司法書士法人わかば法務事務所の代表として、彼はこの街に暮らす人々の「困った」に向き合い続けている。

    司法書士とは何か。ただ登記の手続きをするだけの職業ではない。相続にまつわる人々の葛藤、債務整理における人生の再出発、企業経営の基盤となる法人登記。人の生活に根を張り、時には見えない傷を癒し、時には厳しい現実と向き合う。そのすべてを、久保隆明は八戸の地でやってきた。

     

    覚悟

    久保が司法書士という道を選んだ背景には、父の存在がある。父もまた司法書士だった。しかし、彼が学生時代にこの職業に強く憧れたわけではなかった。「サラリーマンになるよりは、自分の力で生きる道を選びたかったんです。」この強い意志が、彼を資格試験の世界へと向かわせた。司法書士試験の合格率は約2%。挑戦者の98%が敗れ去るこの厳しい世界。2002年、そこで彼は5度目の挑戦で合格を果たす。その後、東京で修行を積むが、2003年に父の病を知り八戸に戻る決意をすることとなる。

    翌2004年、父が他界。事務所を継ぐことになった。

    だが、引き継ぎは容易ではなかった。父の死は突然であり、久保はまだ実務経験も浅かった。事務所には父が受け持っていた依頼者がいた。長年の信頼で築かれた顧客がいた。しかし、その多くが、久保が都内で扱っていたものとは全く異なる分野の依頼内容ばかり。そして経営者としての経験もなければ、司法書士として独立する覚悟も彼はまだできていなかった。

    迷った。このまま続けるべきか、それとも一度手放すべきか。しかし、答えはすぐに出た。次々に舞い込む案件、相談に訪れる依頼者たち。彼らは、亡き父が築いた信頼のもとに、変わらぬ支援を求めていた。

    「辞めるわけにはいかない。」久保はそう決意し、未熟なまま司法書士としての実務に飛び込んだ。最初の数年間は苦しい日々が続いた。父が残した案件を処理しながら、新たな相談にも対応しなければならない。手続きの流れすら完全に把握できていない状態で、書類を必死に調べながら、一つずつ業務をこなしていった。顧客は待ってくれない。相続は遅れれば遅れるほど問題がこじれる。法律の知識だけではなく、依頼者の感情にも寄り添いながら、最善の解決策を探す。その過程で、彼は学んだ。「司法書士とはただ法を扱う仕事ではないんです。人と人をつなぐ仕事です。」

    そして2009年、個人事務所から法人化し司法書士法人わかば法務事務所を設立。共同代表だった水谷秀樹も後に他界し、久保が単独で代表を務めることになる。水谷事務所の歴史を含めれば、この事務所は八戸の地で68年以上続く司法書士事務所だ。積み重ねられた信頼と歴史の上に、彼は新たな時代を築こうとしている。

     

    相続は未来を形づくる選択の瞬間

    「相続は誰にとっても身近な法律問題である」

    人が亡くなると、その人が持っていた財産は遺された人々に引き継がれる。だが、相続というものは単に財産の移転ではない。そこには感情が絡む。愛情もあれば、わだかまりもまた然り。兄弟同士の争い、親戚との絶縁…久保はこれまで、相続をめぐる数えきれないドラマを見てきた。

    「価値の低い財産の分け方によって、価値の高い家族の絆が壊れることがある。それが、何よりも残念なんです。」そう語る久保は、司法書士としての職務以上に、人と人との関係性に重きを置いている。

    相続は単なる法律手続きではない。それは家族の歴史を確認する作業であり、未来を形作る選択の瞬間でもある。ひとつの不動産や財産がきっかけで、長年の家族の絆が失われることがある。逆に、適切な準備と調整を行えば、相続は家族のつながりを強化し、次世代へと安心を届けることもできる。久保は、この「人間関係のバランスを守る」という視点を大切にしながら、相談者一人ひとりと向き合う。司法書士としての役割は、単に法を解釈し適用することではなく、依頼者の心情に寄り添い、最も円満な解決を導くことにある。

     

    法を使い人をつなぐ

    シェイクスピア『ヴェニスの商人』のポーシャ。彼女は法律を知り尽くし、機転を利かせて人々の運命を変えた。シャイロックが厳密な法の適用を求めたとき、ポーシャは「法は人間のためにある」と示し、情と理のバランスをとった人物として描かれている。

    久保隆明もまた、法律と人間の間で生きる者だ。法的な解決だけを求めるなら、それは単なる書類の処理にすぎない。しかし、そこに人間関係が絡む以上、彼の役割は「法を使って人と人をつなぐ」ことにある。

    これからも久保隆明は、八戸の街で、人々の人生に寄り添い続けるだろう。法を知り、そして人を知る者として。

  • 株式会社福萬組_中沢 智善

    十和田発・福萬組の進化論

    青森県十和田市。この地は、開拓者たちの汗と血によって作られた。明治期に本格的な開拓が進んだこともあり、広大な十和田湖が育む水と大地が豊かな実りをもたらすようになったとされる。しかし、自然は時に厳しく、人の営みを脅かす。冬には豪雪が、時には水害が、住人に試練を与えてきた。

    そんな環境の中で、福萬組は生まれた。戦後まもない1950年、先代たちがこの地に建設会社を興し、インフラ整備を通じて地域を支えた。それは単なる生業ではなく、この地に生きる人々の生活を守る使命でもあった。戦後の荒廃から立ち上がり、土木と建築を通じて地域の未来を築く。その覚悟が、福萬組のDNAとなった。

    以来、福萬組は幾度となく苦境に立たされながらも、そのたびに新たな道を切り開いてきた。経済の波、技術革新、人口減少の影響…変化する時代の中で、ただ過去の成功にしがみつくのではなく、常に新しい挑戦を続けている。それを支えているのが、現在の専務取締役・中沢智善である。

     

    意図していなかった帰郷

    学生時代に都内で経営学を学んでいた中沢。大学卒業後は都内で働こうか、なんとなくそう考えていた折に、家族から連絡が来る。母の病だった。悪性リンパ腫の診断を受けた母の状況を聞き、彼は卒業と同時に、家族のために地元へ戻る決意を固めた。2007年、家業である中沢水道設備工業株式会社に入社。彼は家業を支えながらも、時代の流れを敏感に読み取り、企業経営の最前線に立った。

    「会社の未来は人がつくるものですから。人が育たなければ、企業の成長はないと確信しています。」そう語る中沢は、経営の最重要課題は「人財育成」であり、それは建設業界の未来そのものだと考えていた。2019年には代表取締役社長に就任し、会社を牽引。その後、巡り合わせが重なり建設会社である福萬組の経営に参画することとなり、2024年に専務取締役としてこの老舗企業の改革に挑むことになったのである。

     

    執念のSlack導入

    中沢は、子どもの頃に父親に連れられた養鶏場の記憶を今でも鮮明に覚えている。小学5年生の彼は、自分の手で一羽の鶏を締めた。その経験は、命の重さ、仕事の厳しさ、そして何かを成し遂げるために必要な覚悟を彼に植えつけた。そして社会人になってからは、まさに「働きアリの法則」を目の当たりにしながら、企業とは、そして経営とは何かを学び続けた。経営者とは、会社の未来を見据えながら、常に変化を受け入れ、時には反発を受けながらも前に進む存在である。中沢は、そのことを身をもって知っているのだ。

    福萬組に入社してから、中沢はまず社内の現状を徹底的に分析し、業務の効率化と組織の活性化に取り組みはじめた。ここでポイントなのは、社員の意見を聞きながら業務プロセスの見直しを行い、DX推進やペーパーレス化、そして業界では実現が難しいとされてきた4週8休を徹底して推し進めたことである。初めは慣習を変えることに対する抵抗もあったが、「変化なくして成長なし」という信念で、ガーディナー副社長の協力のもと地道に、しかし確実に改革を進めた。さらに、若手社員の育成にも力を入れ、チームワークを重視する企業文化を根付かせた。現在の福萬組では、数年前に導入を果たしたSlackが社内全体に浸透。今では手放せないツールの一つとなっている。彼にとって組織とは、一人で動かすものではなく、全員が主体的に動くことで成長するものなのだ。

    17世紀の明末清初に活躍した思想家、王夫之は「知識とは実践を通じてのみ真の価値を持つ」と説いた。彼は、理論だけでは人を動かせないことを見抜き、実際に行動することこそが真の学びであると主張した。その思想は、時代を超えて現代の経営にも通じる。中沢の「まずやってみる」という精神も、王夫之の「知行合一」の理念に深く根ざしていると言っても過言ではない。

    「知識を得たら、それを試して、失敗して、また学び直す。それを繰り返すことでしか、本物の成長はありません。」彼の言葉には、王夫之の実践哲学と、自らの経営哲学がまさに融合しているかのようにも思える。

     

    “できない”じゃない、“どうやるか”だ。

    「地方だからできない、建設業だから厳しい、そんな考えは捨てるべきだと考えています。できない・難しいのではなく、であればどうするか?…と考え方を変えて、そして動いていかなければ、どんな企業でもやがて立ち行かなくなりますから。建設業は、ただモノをつくる仕事じゃない。地域の未来をつくる仕事なんです。前例も大切ですが、変化することも同じように重要です。」

    青森県十和田市の地に根を下ろし、地域とともに歩んできた福萬組。その中で、自らの信念を貫き、時代の変化に果敢に挑む中沢智善。彼の闘いは、まだ始まったばかりだ。挑戦を恐れず、常識を疑い、自分の手で未来を切り拓いていくことが重要だと語る中沢。彼の眼差しは、すでに未来を見据えている。そしてその未来には、新しい時代を担う若者たちがいるに違いない。

  • 有限会社橋場不動産_橋場 祐太

    自然・文化・課題の宝庫、十和田市

    青森県十和田市。四季折々の美しい風景と、雄大な自然に囲まれたこの街は、奥入瀬渓流や十和田湖といった観光資源に恵まれ、多くの旅人を魅了し続けてきた。古くは馬の生産地として栄え「馬のまち」としての誇りを持ち続けながら、農業や酪農の発展にも力を入れてきた歴史ある地域である。現在では、草間彌生やロン・ミュエクといった名だたる芸術家の作品を所蔵している十和田市現代美術館などの文化施設が注目を集め、新たな観光スポットとしても発展を遂げている。しかし、一方で人口減少や空き家問題などの社会課題にも直面しており、まさに今、都市の再生と持続的な発展が求められている市でもある。

    こうした課題を前に、持続的な発展を遂げるために地域に根ざした挑戦を続ける男がいる。有限会社橋場不動産の代表、橋場祐太だ。彼は不動産業の枠にとらわれず、新たな価値を創造し、地域社会に貢献し続けている。

     

    事務所に席はなかった

    橋場が不動産業に身を投じた背景には、紆余曲折があった。もともとは司法試験に挑戦し、弁護士を目指していたと語る橋場。大学院まで進学し、法の世界に身を置こうと奮闘していたものの、試験に三度挑んだ末に不合格。司法の世界ではなく、家業である不動産業を通じて人を助ける道があるのではないか。そう考え、橋場不動産に入社する決意を固める。

    しかし家業に戻ったとはいえ、最初から順風満帆だったわけではない。入社したタイミングでは事務所はすでにパンパン、自分の席すら置くことができない状態だった。社屋のとなりにある喫茶店の片隅で仕事を始めるところからのスタートだったという。とはいえ、PCがあれば仕事はできた。一方で紙と電話、FAXが当たり前だった社内環境に違和感を覚えた橋場は、ITを駆使した業務改善を推し進める。しかし、伝統的なやり方に慣れている古参社員との軋轢も生まれた。スプレッドシートでの共同編集を導入した際も、社内から反発があったが、彼は諦めなかった。

    「変革には時間がかかります。会社として痛みも伴うかもしれません。しかしやるべきことを貫けば、結果は必ずついてきます。」そう語る橋場の信念は揺るがなかった。結果として社内のデジタル化が進み、業務の効率は飛躍的に向上。社内そして顧客とのやり取りも電話からチャットへ移行し、無駄な業務が削減された。さらに、行政書士の資格を取得し、不動産相続や空き家問題にも対応できるように。地域の課題を解決するために、できることを一つひとつ増やしていったのだ。

     

    やるなら全部オンラインで

    現在、橋場は完全非対面の契約システムを構築し、顧客がスマホ一つで物件を契約できる仕組みを作り上げた。遠方からでも契約できるため、十和田市の不動産市場にも新たな可能性が生まれている。

    だが、それだけでは終わらない。彼は今、空き家問題に真正面から向き合っている。地方都市では、親から相続した不動産を持て余し、放置するケースが後を絶たない。これらの物件が管理されずに放置されると地域の価値は下がり、さらなる人口流出を招く。そこで彼は「空き家管理サービス」を立ち上げ、オーナーに代わって物件のメンテナンスを行う仕組みを構築。さらに自治体とも協力し、再活用のためのマッチング支援を進めている。全国的にも問題視されるこの課題に対し、橋場は行政や他の専門家と連携しながら、持続可能な解決策を模索しているのだ。

     

    チャンスはここにある

    「人生即努力、努力即幸福」と説いた本多静六は「貯蓄の神様」とも称され、日本の都市計画や森林保全に多大な貢献を果たしてきた。倹約と投資を徹底し、その資産を社会のために役立てることに生涯を捧げた。自らの資産を活用し、公共のために公園の整備を進め、日本各地の都市計画に尽力したことで、現代においても彼のその功績は語り継がれている。彼の哲学は単なる個人の利益追求ではなく、社会全体の繁栄を見据えたものだった。未来のために資産を形成し、持続可能な発展を促す考え方は、現代のまちづくりにも通じるものである。

    橋場の取り組みも、まさにこの精神と一致するといえよう。彼は、ただ不動産を売買・賃貸するだけでなく、十和田市という地域に価値を還元しようとしている。不動産のデジタル化、空き家対策、賃貸契約の完全オンライン化といった手法を通じて、地域住民が安心して暮らせる環境を整えようとしている。彼の視点は短期的な利益ではなく、長期的な地域発展を見据えたものに他ならない。情報技術が発展し、どこにいても知識を得られる時代。だからこそ、「地方だからできない」と考えるのではなく「地方だからこそできること」を見つけることが大切だ。特に十和田のような地方都市には、まだ手がつけられていない課題や未開拓の領域が多く残っている。そこには、新しいビジネスや働き方を生み出せる可能性がある。

    ただし、変化を起こす際に忘れてはいけないのは、変化に対する反発があることを前提に、うまく伝えていくことだ。橋場自身も社内のIT化を進める中で、旧来のやり方にこだわる人々との衝突を経験した。しかし、結果を出しながら徐々に受け入れてもらうことで、業務の効率化を成功させた。新しいことを始めるときは周囲の反応を無視せず、どうすれば納得してもらえるのかを考えながら進めることも大事なのだ。

    橋場自身、司法試験に挑みながらも道を変え、不動産業という新たなフィールドで挑戦を続けてきた。失敗を乗り越えることが、成長への大きな糧となる。どんな道を選んでも、自分の手で未来を切り拓く意志さえあれば、道は必ず開ける。橋場祐太の生き様が、その証明なのだ。「挑戦することを恐れてはいけないとつねに心がけています。たとえ失敗しても、挑戦しなければ新しい価値は生まれないですから。もちろん最初は思い通りにいかないことが多いかもしれない。しかし、一歩踏み出したその先に、まさに自分だけの道が開けると思っています。今の時代、一度外に出た人も、今ここにいる人も、情報を活かして挑戦できるのが十和田市ではないでしょうか。社会の課題は、誰かが解決しなければならないもの。ならば、自分がその役割を担うのも悪くないと思っています。問題を避けるのではなく、正面から向き合い、解決策を見つけることが大切ですから。街を良くするために、やるべきことはありますね、本当にたくさん…笑。」

    挑戦し続ける者だけが、新しい時代を創ることができる。

  • 株式会社菅原ディーゼル_岩間 未希子

    錆びついた男社会に飛び込む女社長

    青森県八戸市。太平洋に面し、古くから漁業や工業が盛んなこの町は、豊かな自然と発展する産業が共存する地である。国内有数の水揚げ量を誇る漁港があり、新鮮な海産物が全国へと供給される。また工業都市としても成長し、船舶や発電設備などのメンテナンス技術が蓄積されてきた。

    この地に根付き、時代とともに歩んできた企業がある。株式会社菅原ディーゼル。船舶や発電機、工場用機器などの大型機械のメンテナンスを担うその会社は、創業から95年、まもなく100周年を迎えようとしている。その舵を取るのは、四代目社長・岩間未希子代表だ。彼女のキャリアは、最初からエンジンと共にあったわけではない。幼少期から「女性だから」という言葉と戦いながら、銀行員としての経験を積み、家業を継ぐ決意を固めた彼女の生き方は、まさに強くしなやかである。

     

    「男の子だったらよかったのに」

    菅原ディーゼルの歴史は、1930年(昭和5年)に初代・菅原喜四郎が漁船の焼玉エンジン製造と修理を始めたことから始まる。八戸港に近い立地を活かし、地元の漁船を支えながら成長してきた。しかし、1970年代に排他的経済水域(EEZ)が制定されると、漁業のあり方が一変。船舶整備に頼る経営は難しくなり、不渡手形が束になるほどの経営危機に見舞われたという。だが、菅原ディーゼルはここで柔軟な発想を持ち、船舶整備技術を陸上機械のメンテナンスへと応用。この転換が、今日の安定した基盤を築くきっかけとなった。

    岩間未希子、1990年生まれ。三姉妹の末っ子として育ち、幼少期には父から「男の子だったらよかったのに」と言われた過去を持つ。幼心に「女性だから」と言われ表現できない悔しさを感じながらも、その経験が彼女の原動力となった。

    大学卒業後は青森銀行に入社し、個人ローンや法人融資、資産運用など幅広い業務を経験。そこで得たのは「人との信頼関係」の大切さだった。特に法人融資を担当していた時期には、多くの経営者と向き合い、企業を存続させることの難しさを肌で感じる。その中で自然と父の会社を意識し始め、「もし私が継がなければ、会社はどうなるのか」という思いが芽生えた。そして、前社長である父からの誘いもあり、2022年に家業へ転職。2024年、33歳の若さで社長に就任した。

    銀行員から、ディーゼルエンジンのメンテナンス業へ。業界の違いは歴然だった。しかも、菅原ディーゼルの現場は男性社会。工具の匂い、オイルの染み込んだ作業着、長年培われた現場の勘。それらは彼女にとって未知の領域であり、歓迎されないのではないかという心配もあった。最初は「社長が女性で大丈夫か?」という不安の声も少なからずあった。しかし、彼女は真正面から向き合った。

    入社後すぐに現場の社員と面談を重ね、匿名アンケートを実施。社員の本音を引き出し、会社の問題点を洗い出した。その結果、彼女が想像していたよりも社員の会社愛は強く、「もっと良い会社にしたい」という思いがさらに強まった。そして、ただ感じるだけでなく、動いた。彼女は就業規則を見直し、社員の働きやすさを向上させた。休暇届の「理由欄」を撤廃し、堂々と休める会社へと変えた。そして何より、組織内の対話を増やし、社員の声を聞くことを何よりも大切にしたのである。

     

    “過酷”のレッテルを剥がせ

    現在、菅原ディーゼルは船舶整備に加え、病院の非常用発電機や工場の機械メンテナンスなど、社会インフラを支える企業へと成長している。今後はクリーンエネルギーの台頭を見据え、ディーゼルエンジン以外の動力にも対応できる技術を磨いていく計画だ。

    彼女が目指すのは、「技術職=過酷」というレッテルの払拭だ。エンジン整備の仕事は、確かに一朝一夕で語れるような簡単なものではない。だが、それは“自分にしかできない技術”を持つという誇りでもあるといえる。岩間は、若い世代にこの仕事の魅力を伝え、彼らが未来のエンジンを支える存在となるよう、発信を続けている。

    そして、彼女の心の中にある「共存共栄」の精神。これは自社の利益だけでなく、取引先や地域社会の発展を共に目指すという、創業以来菅原ディーゼルが大切にしてきた価値観であり、考え方だ。「私利私欲ではなく、相手の幸せを考えることが、最終的に自分たちの成長につながると確信しています。」そう語る彼女の眼差しは、菅原ディーゼルを率いる人間として確かな未来を見据えている。

     

    青森に響き続けるディーゼルの音

    貧しい環境から身を起こし、自らの力でビジネスを築き上げた女性がいる。サラ・ブリードラヴこと、マダム・C・J・ウォーカー。彼女は黒人女性として初めて成功を収めた実業家であり、逆境の中で自らの道を切り開いた。

    歴史の中で、「女性だから」という理由で可能性を閉ざされてきた者たちがいる。しかし、その中には逆境を乗り越えた者もいる。岩間未希子の歩みもまた、それに通じるものがある。性別の壁、業界の壁、世代の壁。あらゆるハードルを乗り越え、会社を牽引する彼女の姿は、ウォーカーが築いた道と重なる。新しい時代の中で、古い価値観を打破し、次の世代へとつなげていく。その使命感を胸に、岩間は今日も前へと進み続ける。

    「この会社を守り抜く。それが私の使命です」そう朗らかに語る彼女の言葉には、迷いがない。八戸の冷たく澄んだ空気、エンジンの唸りが響く。その音は、この地に根を下ろして90年以上、菅原ディーゼルが築き上げてきた歴史の鼓動だ。そして、その鼓動を新たな時代へと響かせるのが、四代目代表・岩間未希子である。これからも、八戸の風を受けながら、菅原ディーゼルという企業をさらに発展させ、新たな未来へと導いていくだろう。

  • 弘前こぎん研究所_成田 貞治

    伝統と革新の「バランス」

    こぎん刺しは、単なる装飾ではない。江戸時代、津軽地方の農民たちは厳しい寒さと経済的制約の中で、麻布しか着ることを許されなかった。目の粗い麻布は保温性に乏しく、そこで生まれたのが、木綿の糸を用いた「刺し子」だった。奇数目を数えて施される刺し子は、布を補強し、保温性を高めるという実用性を持ちながらも、やがて独自の美意識へと昇華した。こうして生まれた「津軽こぎん刺し」は、日本三大刺し子の一つとして確立される。

    こぎん刺しには三つの主要な種類がある。「東こぎん」は太めの粗い麻糸を使い、大胆な模様が特徴。「西こぎん」は苧麻(からむし)の細い糸を使用し、緻密な模様を描くことで知られる。「三縞こぎん」は、金木町周辺で発展し、鮮やかな三本の縞模様が特徴だ。これらのこぎん刺しには、「モドコ」と呼ばれる伝統的な幾何学模様が用いられ、現在40種類ほどが存在している。

    この伝統を継承し続けてきたのが、弘前こぎん研究所である。1942年、地域産業の発展を目的として誕生し、60年代には「こぎん刺し」を中心とした事業へと転換。現在に至るまで、手仕事の技術を守りながらも、新たな挑戦を続けている。

    杉本貞吉が戦後の混乱の中で日本生命の再建を成し遂げた話を思い出す。徹底した合理化と強靭な経営哲学を持ち、危機を乗り越えた男。だが、その成功の裏には、伝統と革新の絶妙なバランスがあった。時代に応じて変化しながらも、決して本質を見失わない。その姿勢こそ、今日の「弘前こぎん研究所」会長の成田貞治に重なる。

     

    連鎖倒産の危機

    成田貞治は1949年、青森県弘前市に生まれた。電気工事の道に進んだが、1979年、父の要請により弘前こぎん研究所へ入社。最初は乗り気ではなかった。むしろ、地味で女性が多い職場に違和感すら抱いたという。「電気工事の現場では、男同士が喧嘩して酒を飲んで、それで終わり。でも、ここは全然違いました。」

    しかし、次第に「こぎん刺し」の魅力に惹かれていく。初代所長の著作を熟読し、自らも針を持ち、刺し続けた。そして気がつけば45年。この間、経営の危機もあった。連鎖倒産の波に飲み込まれ、負債を15年かけて返済した。「もう潰すしかない」と何度も思ったが、最後の一線で踏みとどまったのは、「こぎん刺し」という文化を守り抜くという信念だった。

    こぎん刺しの本質は「変化と継続のバランス」にある。かつては、紺地に白糸が基本だったが、現代では色とりどりの糸が使われるようになった。それを批判する声もあったが、成田は信じる道を進んだ。「ただ昔のままでは商売にならない。商売にならなければ伝統は廃れる。だからこそ、変化が必要なんだと感じました。」代表はゆっくりと言葉をならべていく。

    新しい時代に即したデザインを取り入れながらも、弘前こぎん研究所がこだわるのは、手仕事の質だ。機械で量産する「こぎん風」の製品が市場に溢れる中、成田は決して妥協しない。「本物」のこぎん刺しは、機械には真似できない温もりと魂が宿る。だからこそ、研究所では現在も100名近い職人たちが、一針一針を手で刺している。

     

    こぎん刺しの本質

    伝統工芸の最大の課題は、継承者の確保だ。成田も75歳となり、娘やその夫が経営を担い始めた。しかし、次世代へと技術を継ぐことは容易ではない。だからこそ、産・学・官の連携を強化し、学校教育にもこぎん刺しを取り入れる試みを進めている。

    さらに、「津軽こぎん刺し」を地域ブランドとして確立し、全国・世界へと発信する計画も進行中だ。成田自身は「海外進出には興味がない」と言うが、それは「日本の市場で十分に価値を伝えられる」という自信の表れでもある。

    彼の座右の銘は「十人十色」。それは多様性を尊重し、伝統の中にも新しい風を取り入れる柔軟性を象徴している。例えば、かつてのこぎん刺しは紺地に白糸が基本だったが、今ではカラフルな色彩が加わり、より多くの人に受け入れられるデザインへと進化した。とはいえ、弘前こぎん研究所が重視するのは、「手仕事の魂」だ。機械生産が進む中で、成田は「手刺しの温もりこそが、こぎん刺しの本質である」と断言する。

     

    伝統とは、変わり続けること

    「AIの時代になろうが、どれだけ技術が進歩しようが、人の手が生み出す価値は変わらない」その言葉には、伝統に生きる者の矜持がある。「目標がないなんて そんなの当たり前だと思ってるんです。私だって最初はやる気なんてなかった。でも、続けるうちに見えてくるものがあります。」彼の人生は、その言葉を証明している。

    こぎん刺しに興味がなく、いつ辞めてもいいと思っていた男が、今やその第一人者として道を切り拓いてきた。やりたいことがなくてもいい。ただ、何かを続けてみる。そこから、新しい道が生まれることもあるのだ。

    弘前こぎん研究所は、単なる伝統工芸の会社ではない。それは、「生きる知恵」と「ものづくりの魂」を次世代へと繋ぐ場だ。成田貞治が守り、築いてきた道は、これからも続いていく。

    「伝統とは、変わり続けること」その信念のもと、弘前こぎん研究所は未来へ向かって歩み続ける。

  • ヴァンラーレ八戸_下平 賢吾

    南郷村のサッカー少年

    青森県八戸市の南部に位置する南郷村。かつては独立した村であり、豊かな自然に囲まれながらも、サッカーとは無縁に思えたこの地から、Jリーグを目指すクラブが誕生した。その名は「ヴァンラーレ八戸」。その立役者が、南郷村のサッカー少年であり、現在代表取締役社長の下平賢吾である。

    幼少期からサッカーに夢中になり、光星学院高校(現・八戸学院光星高校)では全国大会へ出場。東北のマラドーナという異名がつけられるほど目覚ましい活躍を続けていた。しかし、1993年のJリーグ開幕を目の当たりにしながらも、「プロサッカー選手になる」という道は、当時の青森県の環境では遠いものだった。彼が選んだのは、地元でスポーツに関わり続ける道だった。1998年、南郷村公共施設管理公社に入社。施設管理の仕事を通じて地域のスポーツ文化を支えつつ、地元でサッカーの指導を続けた。そして2006年、彼の運命を大きく変える出来事が起こる。南郷村が八戸市に吸収合併されることが決まり、それに伴い、地元のスポーツ施設が再編されることになったのだ。

    地域のサッカー文化を絶やしたくない。その想いが、彼をヴァンラーレ八戸創設へと駆り立てた。ヴァンラーレ八戸。その名前には「ヴァン(起源)」と「アウストラーレ(南の郷)」という意味が込められている。南郷村から始まったクラブが、八戸、さらには青森全体を巻き込む存在になることを示唆するように。

     

    涙を飲んだ日々

    2006年にNPO法人として発足したヴァンラーレ八戸は、当初は社会人サッカーチームの一つに過ぎなかった。しかし、クラブを単なる「大人のためのサッカーの場」ではなく、「子どもたちの夢を支える場」とするために、育成組織にも力を入れた。だが、それだけでは満足しない。2008年、クラブは「Jリーグ昇格」を目標に掲げることを宣言する。

    ヴァンラーレ八戸がJFL(日本フットボールリーグ)に昇格するまでの道のりは、まさに地獄だったと下平は語る。当時、クラブは東北社会人リーグの2部に所属。その先には1部、全国地域リーグ決勝大会、JFLと続く。Jリーグへの道はあまりにも遠かった。社会人リーグ1部の強豪を打ち破り、ようやく地域リーグ決勝大会に進出していくヴァンラーレ八戸。しかし、全国5000以上あるクラブの中で、JFLに昇格できるのはたった2チーム。資金、人材、施設、すべてが不足していた。選手たちは仕事をしながらトレーニングを続け、遠征費すら自費負担をかけてしまうこともあった。

    さらに追い打ちをかけたのはJ3創設のタイミングだった。2014年、J3が新設されることでJFLのチームが大量に抜け、新規参入のチャンスが訪れる。しかし、条件が厳しかった。JFLの成績4位以内、1試合平均観客2000人以上、年間事業収入1.5億円以上、そしてJリーグ基準のスタジアム準備。どれも簡単に満たせるものではなかった。しかも1年間のうちにすべてを満たす必要があり、一つでも欠けてしまうとJリーグの参入は叶わない。

    クラブは必死だった。試合前には地元企業を回り、一軒一軒スポンサーを募った。メディアの力を借り、地元住民を巻き込み、「Jリーグへの挑戦」を訴え続けた。しかし、2016年、JFL2位の成績を収めながらも、スタジアム基準を満たせずJ3昇格を逃した。何度もあと一歩のところで涙を飲んだ。「もう無理なんじゃないかと。選手もスタッフも、心が折れる寸前でした。」だが、下平は諦めなかった。市長をJFL事務局に連れて行き、自治体の支援を直接交渉。当時の八戸市長は「ヴァンラーレ八戸の未来のために」と事務局に嘆願した。そしてついに2018年、J3昇格が決定。涙と歓喜が交錯する、歴史的な瞬間だった。後にJFLは「ここまで自治体が支援するクラブはなかった。八戸しかなかった」と下平の活躍を高く評価していたという。

     

    Jリーグ参入は“試合開始の合図”

    Jリーグ昇格はゴールではなかった。むしろ、戦いはここからだった。経営基盤の安定、観客動員数の増加、強化費の確保。J3クラブとして生き残るために、新たな挑戦が始まった。下平は、クラブを「地域の誇り」として根付かせることを決意した。ホームスタジアムであるプライフーズスタジアムの改修、地元企業とのパートナーシップ強化、地域イベントへの積極的な参加。クラブはサッカーだけでなく、地元経済の活性化にも貢献する存在となった。

    また、ユース世代の育成にも力を入れた。ヴァンラーレ八戸のアカデミーは、青森県全域から選手を集め、次世代のサッカー選手を育成する場となった。「Jリーグで戦うだけでなく、青森の子どもたちが夢を持てる環境を作る」ことこそ、下平の新たな使命だった。

     

    ヴァンラーレの使命

    フランス代表をヨーロッパ王者へと導いたミシェル・イダルゴは、華やかなスター選手を輝かせるために、裏方に徹した名将だった。フランス代表の黄金期を築きながらも、自らは常に影の存在であり続けた。下平賢吾の姿勢もまさにそれだ。なによりも、選手がより良いパフォーマンスを発揮できる環境を整えることを優先する。彼の努力の多くは決して目立つものではないが、その積み重ねがヴァンラーレ八戸の現在をつくり上げた。

    選手が活躍できる環境を整える。その思いがある限り、彼は常にクラブを支え続ける。彼自身が前に出ることはなくとも、ヴァンラーレ八戸が成長し続ける限り、彼の存在感は決して薄れることはない。自己犠牲ではない。これは使命だ。八戸の風の中で、今日も彼は静かにクラブを支え続ける。

  • 株式会社アイアールエフ_長谷川直宏

    積雪で苦しむ人々を救いたくて

    時代が移り変わるとき、人々が見落としがちなものがある。それは土地に根ざした「本当の可能性」だ。

    エネルギー産業の歴史を眺めると、常に巨額の資本と巨大設備が動かす華々しいイメージばかりが取り沙汰されるかもしれない。だが、その裏側には地域の気候・環境、地形、そこに暮らす人々のライフスタイルを巧みに活かし合う“在地型の技術革新”が、確かに存在してきた。現代では、大型化が進む風力発電や太陽光パネルの大規模設置がエネルギー転換の主流として叫ばれている。しかし、“地域の風”や“雪深い土地”ならではの課題に正面から向き合い、「この地で暮らす人を助けたい」という純粋な思いから事業を興す者もいる。株式会社アイアールエフ代表取締役・長谷川直宏は、まさにその一人だ。

    株式会社アイアールエフは2013年12月に設立された。資本金1000万円、正社員3名に加え協力会社5社とタッグを組む。五所川原市を中心に、再生可能エネルギー機器の製造・販売・施工までワンストップで提供し、地域の人たちが無理なく利用できるよう懇切丁寧に解説している。農業・小規模な農地・一般の家庭でも導入できるよう、小型風力の仕組みを一から説明してくれるのだ。売電を通じて副収入が得られるケースだけでなく、近年は「自家発電を行い、地域の雪対策にまわす」アイデアを提示するなど、新しい再エネのカタチを追究している。まるで地元の“かかりつけ医”のように、技術と地元特有の環境をつなぎ、使う人がつまずきそうな問題を先回りして解決する。そんな姿勢こそが、この会社最大の強みだ。

    アイアールエフの拠点は、青森の風と雪が荒々しく肌を刺す津軽地方。この地を拠点に、電気ヒーターの開発・製造、そして施工・メンテナンスまで一貫して行っている。冬になると凍りつく道路や駐車場、積雪による生活への影響に苦しむ人々を、どうにか助けたい…そんなモチベーションが同社の原点だという。しかも長谷川は小型風力発電の普及やメンテナンス事業にも打って出た。かつてヨーロッパのメーカーが提供していた小型風力発電機が次々と撤退・倒産を余儀なくされ、ユーザーが置き去りにされた状況をなんとかしようとフォローに回ったのがきっかけだ。誰かがやらねば人々が困る。ある意味では泥臭く、リスキーで、儲かるか分からない。しかし、その“おせっかい”とも呼べる行動が地元にとって何よりもありがたい。まさに古い価値観と新しい技術が織り交ざる“エネルギー産業の今”を、この青森から独自のアプローチで切り開きつつある。

     

    アイデアはあるが、カネはない

    だが、長谷川がここに至るまでの道のりは決して平坦ではない。そもそも近畿大学工学部(広島キャンパス)に進学し、経営工学を学んだ若き日から彼の人生は軽やかにジグザグを描いてきた。卒業後は青森リコーに就職するが、わずか3年ほどで独立を決意。まだ何者でもなく、資本もなく、技術を確立しているわけでもない。しかし「自分の思い通りの製品を設計・製造したい」という熱だけはあった。加えて青森の雪に悩まされる人々を救う策はないものか…その思いに突き動かされ、個人事業として電気ヒーターの開発・試験施工を始める。

    当時は携帯電話もまだ今ほど普及しておらず、補助金制度なども整備されていない。ヒーター開発に取り組みつつ、生活費を確保するために商工会議所に融資の相談へ足を運ぶ。研究設備どころか家賃の工面すらままならない時期もあった。「アイデアはあるが、カネはない」日々そう痛感させられたと振り返る。

    しかし「困っている人がいるなら駆けつける。電話は24時間応える。」それが長谷川のやり方だった。風呂場だろうがトイレだろうが、いつでも電話を取り、依頼があれば現場に向かい、試験的に製品を設置する。その場で不具合が見つかれば、徹夜で構造を練り直す。スイッチの誤作動はセンサー設定の問題か、雪の性質か、温度差か。ひたすらトライ&エラーを繰り返しながらノウハウを積み上げていった。

    印象深いエピソードを問うと「お金がないまま研究を続けたことが一番きつかった」と苦笑いを浮かべながら口にする。「あの頃は電話代すら惜しくて、でもお客様の電話は絶対に出なきゃいけないし、どうにかしなきゃという思いで毎日生きていましたよね。」という言葉には、どこか懐かしさすら感じてしまう。生活資金のめどが立たないどころか、試作品は失敗だらけ。それでも少しずつコンクリート中にヒーターを通す技術を磨き、ロードヒーティングを現実にしていった。大手ハウスメーカーと提携し、次々と施工依頼が舞い込み始めたのは、こうした地道な努力が実を結んだからこそだろう。

    さらに2010年代に入り、小型風力発電のブームが到来。海外製の風車が魅力的な売電価格とともに市場を席巻した。しかし、思わぬ故障やメンテナンス不足で全国的にトラブルが多発する。製造元が倒産し、アフターサポートが消え去ったケースも頻発した。そんな状況で、長谷川は青森で立ち上がる。使う人が困っているのなら何とかしようとメーカーに直接問い合わせ、部品の調達方法を探り、現場のメンテや改良案を提示し始めた。「自分がやらねば、誰が助けるんだ。」その義侠心めいた姿勢は、結果的に全国各地の小型風力発電ユーザーを救う一手となった。

     

    究極の地産地消を青森から

    歌人・若山牧水のあまりにも有名な短歌が胸をよぎる。
    「幾山河(いくやまかわ)越えさりゆかば さびしさの果てなむ国ぞ 今日も旅ゆく」
    いくつもの山や川を越えていけば、その先には果てしない“さびしさ”が広がっているかもしれない。それでも旅は続く。若山牧水は自然の風景のなかで自らの在り方を見つめ、孤独とロマンを抱きしめるようにして歌を詠んだ。旅はいつだって孤独だ。だが、前に進まなければ見えない景色がある。

    長谷川と若山牧水の共通点は、その“行動する叙情”にあると言えるのではないか、とさえ思う。詩や短歌は一見、静のイメージを伴うが、若山牧水は日本各地を旅しながら感性を研ぎ澄まし、歌を生み続けた“動”の歌人だった。同じように長谷川は現場を飛び回りながら、新しい可能性を探り続ける。“動き”のなかで魂が磨かれ、そこから見えてくる地元・自然・人間のリアルを製品づくりや施工管理に反映していくのだ。そこには計算づくの戦略ではなく、どこまでも現場主義を貫く強い意志がある。

    長谷川の人生にもまた、何度も越えなければならない山河があった。資金難、技術の壁、家族の心配、地域社会からの疑問。それらをひとつずつ踏み越えるたび、青森の風は彼を試すように吹きつける。しかし、挑戦は途絶えない。

    今の彼の焦点は「地産地消エネルギー」の究極形だという。雪深い冬こそ風が吹き荒れる。ならばその風で発電し、自分の家のロードヒーティングに回そう、あるいは蓄電池を併用して災害時に役立てよう…こうした一連の流れをスタイリッシュに、かつ安価に実現するために動いている。五所川原市と連携して工業団地向けの自家発電システムを構想中であり、ペロブスカイト発電シートの研究や蓄電池の最適利用も含めて、青森発の「エネルギー革新」に挑む。かつては無我夢中で電話を取り、雪かきスコップを握りしめた若者が、いまや南極観測隊に風車を届ける技術協力にまで関わる。何やら物語めいたスケールの広がりを感じずにはいられない。

     

    自らの熱で風を起せ

    「地産地消で次の世代にバトンを渡す」。それが長谷川の揺るぎないモットーだ。大きな企業が新技術を押しつけても、地域社会に馴染まなければ意味をなさない。雪と風と共存しながら培ってきた経験と知識を、「次の世代」へ届けたい。誰もが大都市に出ていってしまう流れのなか、青森から“再エネ世界一”を目指す、そんな夢物語を語る彼の言葉にはどこか地面に足のついたリアリティがある。実際、夜中でも電話を取っていた男の言葉なのだから、まったくに荒唐無稽な理想ではない気がするのだ。

    最後に長谷川は若者へメッセージを贈る。「とにかく動いてみること。立派な施設がなくても、研究が紙一枚でも、アイデアがあればやれることはある。失敗なんて当たり前。その先にしか見えない景色があるんです。」ひたすら実践を重ね、地域の課題に自ら突っ込んでいった男だからこそ、この言葉には説得力がある。大きな風車だけが未来を作るのではなく、小さなブレードの回転からでも地域は変わりうる。幾山河を越える勇気さえあれば、きっと遠くの“さびしさ”も、新しい始まりのサインになるだろう。

    大地が陽光を浴びて温められた空気は膨張して上昇し、冷えた空気がその跡を埋めようと流れ込む。この気圧差こそが風の源泉だ。まるで大地が呼吸するように、季節や地形が紡ぎ出す風は地域に多彩な表情を与える。青森の厳しい吹雪や海からの潮風も、すべては地球の鼓動に呼応して生まれるもの。だからこそ、その風を味方につければ、新たな挑戦の扉が開かれるのだ。

    長谷川は、今日も青森の地で旅を続けている。いくつもの風を、味方につけながら。